第二十九回文学フリマ東京で入手。1996年生まれによる短歌同人誌。*1
連作11本*2(ゲスト一人を含む)と一首評4本に加え、平岡直子による前号評が掲載されている。
エスカレーターから降り立つひとりひとりをよく見る 正解はひとつだけ
正しいことを言う人に質問をすると何時でも正しいことを言ってくれる
/乾遥香「永遠考」
一首目、「正解」とは常識的には待人のことで、自分にとっての正解なのだろうけれど、こう書かれると普遍的に「正解」であるただひとり(ひとつ)の人間がいるように見える。そして「正解」があるということは、それ以外はみな「不正解」であるわけで、恐ろしい。
二首目、「何時でも正しいことを言」う人なんているわけない(と私は思う)し、トートロジーめいた書き方からしてもアイロニーがあると受け止めるのがオーソドックスな読みかと思うが、あるいは本気で言っているのでは、という不安を抱かされるのは、「言ってくれる」の字足らずによる気がする。もちろんアイロニーと本気は二分できるものではないし、割合の問題なのかもしれないが。
連作としても好きでした。タイトルも格好良いし。
ゲーセンの前にふたりは落ちあつて雪降るしづけさから騒音へ
/岐阜亮司「過去について」
「騒音」という音声的な、それもごく短い描写だけで、外部と大きく異なるゲームセンターの空間を総体として喚起する手腕が見事。落ち合う場所の設定や、そこから歌のなかでの移動する距離・時間の小ささも好ましい。
知らない人の噂話を聞かされて毎ターン500のスリップダメージ
/篠田葉子「呼吸器疾患」
上句の現世にありがちな場面に突如ターン制が導入される驚き。作意はもしかすると「スリップダメージ」のほうにあるのかもしれないけれど、仮にそちらの情報が先に提示されていたらあまり面白くなかったし、語順で成功している歌だと思う。毎ターン500ってどれくらいなのかな。そもそも人生というゲームでは最大HPはどれくらいが目安なのだろう。
遠いけどまぶしくはないものとして喫煙室の火の貸し借りを
/佐々木遥「途方のない人生」
遠いものはたいていまぶしい、という裏にある認識の提示が眼目の歌と読んだ。「遠い」ものという印象を持ちつつ、しかし下句の状況を目視できる距離はそれなりに具体的にイメージでき、それは提示した認識に対して「ちょうどいい」距離だと思う。「遠い」と明記されているものに対して言うのも変だけれど。
友達の頼むメニューを決めてやる毎日同じ服の私が
友達が音読をするときの語気 飛べているのが謎のはばたき
/大村咲希「学生短歌会合同合宿二〇一九夏」
一首目、謎の卑屈さに笑うけれど、そんな私にメニューを決められる友達まで卑下に巻き込まれているようでもある。
二首目、「語気」=「はばたき」と読んだけれど、下句の喩にパワーがありすぎる。
連作のほかに、テーマ詠:「黄」がある。
「テーマ詠」というのも考えてみれば珍妙な言葉だけれど、短歌業界一般的には「詠み込みが義務でない題詠」という意味で使われていると思う。とはいえ禁止されていない限り(聞いたことがない)、普通? に詠み込まれることも多いだろうし、ここに掲載されている歌にもそういった例はあるけれど、そうでない歌がなんだかすごい。
ユーチューバーの解散を照らす月 海まで百十五キロ/大村咲希
ひよこっこっこ~きみもげんきでやっとくれわたしは変な歌を歌うよ/初谷むい
詞書:ポムポムプリン
囚われの犬をあなたは見つめつつわたしの100円も使い切る/乾遥香
ユーチューバーと「黄」にどういう関係があるのかとしばらく考え込んでしまったが、ひょっとして月=黄色、ということだろうか。
いや確かに月もひよこも黄色いけどさ、そんなのありかよ、三首目なんてもう「黄」要素が詞書にしかないじゃん……と突っ込みたくなったが、考えてみれば詠み込み義務の題詠の場合は題を詠み込んでさえいれば何でもありで、むしろ題の第一印象からどれほどかけ離れたものにするかに血道を上げるようなひねくれ者すらいる(私とか)。だとすると、「テーマ詠」は「題詠」の単に縛りがゆるくなったものだと自分は思っている、と思っていたのは違ったのかもしれない。
*2:連作を数える単位がわからない