良い旅を

『同志社短歌』三号

 大阪文フリで購入。『同志社短歌』を入手するのははじめて。
 学生短歌会の機関誌名に大学の正式名称が使われているのは珍しい気がする。他は『早稲田短歌』くらい? だいたい『◯大短歌』だし。 裏表紙に大学の徽章が入っているあたりに短歌サークルには珍しい強い愛校心を感じる(冗談です)。

連作

将来は犬飼いたいね、犬うんぼくたちはくたくたのままコンビニへゆく
/あかみ「どうせそこそこの幸せ」

 鉤括弧をかければ「将来は犬飼いたいね、犬」「うん」なのだろうけれど、それをかけないことで2つの発話、ひいては発話者間の境界が曖昧になっているのがよいと思う。三句で「ぼくたち」という語が出てくることによって2つの発話の発話者は1つに縒り合されるのだけれど、もしかすると最初から「ぼくたち」という1つの存在だったのかもしれないとも感じられる。それはどちらの発話が「ぼく」のものかはっきりさせていないからできることなのだろう。小さな幸せを感じますね。
 連作としてはタイトルもそうだけれどやや不全感に寄っているようにも読めるので、私の感想は明るく取りすぎかもしれないけれど。


テーブルに垂れゆくような腕をして青年はシクラメンと眠る
蛇が来てそのまま幹に巻きついたように溺れて斃れる身体
/田島千捺「へだたり」

 この2首をすごくBLっぽく感じたのだけれども、1首目に関してはたぶん「少年は少年とねむるうす青き水仙の葉のごとくならびて」 (葛原妙子)を連想したからだ。


半地下の店からあがる夕方の風に帆となるからだをあゆむ
/田島千捺「へだたり」

 「あがる」が終止形か連体形がよく分からないのだけど、そのことによって「半地下の店からあがる」ことと「風に帆となるからだをあゆむ」ことがシームレスに接続している。店からあがってきた人がいつのまにか風を受けてずんずんと歩いているように思えて、わずかに時間を跳躍しているような印象がある。こういう歌はうきうきしますね。


ネクタイを締めすぎている心地して四条河原町大交差点
/森本直樹「ちいさな湖」

 下句の「四条河原町大交差点」の字面のインパクトは実際の大交差点のスケールに匹敵していると思う。それに比べると上句の字面はいかにも平凡で頼りなくて、まるで大交差点を前にして佇んでいる私のようにも見える。

ペンギン の 解体 動画 手 を つなぐ ふたり は 鑑賞 する 屋上 で
/上篠かける「ばらばら」

 

眼に薄く水を張らせてあるきつつすべては海市のようなものだろう
/北なづ菜「お祈りを終えたひとびとのこと」

 「つつ」とつないだ以上この場合下句にも動詞が来ないとおかしいし、おそらく最後に(と思う)が省略されているわけだけれど、書かないことによってこのような想像がただ浮かんだということだけが純粋に伝わってくる。上句と下句の間で舞台が外界から内面に移動している、とでも言えばよいのだろうか。
 ところでこの下句は「すべてはかいしの/ようなものだろう」と切れば四句と結句はどちらも8音なのに、なんだか結句のほうがより長い気がする。その差が生じる理由として

・4-4と3-5の違い、つまり句を更に分割したとき後半がより長い部分になるほうが長く感じる
・四句よりも結句のほうがより定型への合致が強く期待され、そのために「ような」の段階で残り4音のフレーズを強く想像してしまうから
なんてものを考えているのだけれどもどうでしょうか。
 したり顔で語っているけれど最初「海市」の意味が思い出せなくて調べた。その自分の間抜けっぷりに似つかわしいような歌が何かあったような気がして考えていたけれど、答えは「言海を海だと思うひとが居て心の中に工場が建つ」(山根花帆/『阪大短歌』4号)だった。私に似つかわしいかはともかく、海市も言海もきれいな言葉ですね。

 作者によって字空けが半角になっていたり、1首だけフォントサイズが大きくなっていたりしたのが目についた。特に半角スペース問題については他の冊子や引用ツイートなどでも頻繁に目にして、個人的にはけっこう気になってしまう。冊子に関しては特記のない限り編集サイドで全角一字空けに統一、とかルールを作ってもよいと思うのだけれど、そうすると編集をする人の手間は増えてしまうかな。

動物園吟行歌会録

 京都のやつらはすぐに(京都府立)植物園を歌にしやがって! と最近言ったけれどこれは動物園。

身をよじるクジャクの羽根は背を流れ紫陽花を踏んで来た/田島千捺
という歌への評が興味深かった。

あかみ「あじさいを、踏ん……」
山田「結句三音じゃない?」
あかみ「五、五じゃない?」
山田「五、五、いや七、三?」
田島「なんで三になるんですか?」
山田「ちょっとまって、なんもない(笑)」
あかみ「せめて八、二やで」
山田「あじさいをふん…あじさいを、ふんできた。ああ、五、五ね」
あかみ「八、二か五、五だよ」

 ここではあっさり否定されているけれど、私も初読のとき七、三に、「あじさいをふん/できた」と句切って読んでいたし、いまでも感覚的にはそちらのほうがしっくりくる。言われてみれば確かにおかしいのだけれど。「踏んで」の「ん」が鍵なんじゃないかとは睨んでいる。

〈追記〉
「〈紫陽花を/踏んで来た〉〈紫陽花を踏んで/来た〉と切らせる文節の力より、〈紫陽花を踏ん/で来た〉と切らせる、定型と「ん」の合力のほうが大きい」からでは、三句までは定型であるし、という意見をいただいた。確かにその通りだと思います。
それまでが定型ゆえに四句も同じように定型であることを期待し、そこにちょうど「ん」という句切りやすい音がくるとそれに飛びついてしまう、という感じだろうか。「合力」という表現がいいですね。



 普通ならカットされるような箇所まで文字起こしされていたり、一方で必要なのかわからない補足があったりするのがおもしろい。

あかみ「(略)田島がすごいちゃんと(レコーダー)やってくれてる」
田島「これ(音が)届くかわかんないんだよね、全域に」
御手洗「ではちょっと声を張り気味で。そのまま続きを」

とか。

評論

 御手洗靖大「和歌とはなにか」について言うには「古典には疎いので……」とお決まりの前置きをしなくてはならないのだけれど、論文調(レポート調?)の硬い文体や内容と、その一方で「心の叫び」という曖昧な定義や個人的な会話を根拠として提示にしているところにギャップを感じた。評論と銘打ってあるのだから別に学術論文の作法に則る必要はないのだろうけれど、でも変な気がするなあ。


 寄稿者数は決して多くないけれど、多様性のあるという印象を誌面から受けた。各人がばらばらの出自(インターネットだったり別の学生短歌会だったり国文学だったり俳句だったり)を持っていて、しかし互いに無関心というわけではないのだろうな、となんとなく感じられるところを好ましく思う。おもしろく読みました。
 ブースではフリーペーパーとしてあかみ『ソルボンヌ通信番外編』はたえり『多分ごめんね』『森本直樹(森直樹)自選五十句+α』の3枚も配布していた。

 『ソルボンヌ通信番外編』は短歌のアンソロジーや入門書などを紹介するガイド。入門書として中川佐和子『30日のドリル式初心者に優しい短歌の練習帳』という本が紹介されているのがちょっと意外だった。未読ながらタイトルから想像するにハウツータイプの入門書だろうけれど、学生短歌の人はそういう本はあまり読まないと勝手に思っていたので。今野寿美『短歌のための文語文法入門』が面白そう。
 『多分ごめんね』はイラストがかわいい(連作の横にちっちゃく描いてあるほうが好き)。『森本直樹(森直樹)自選五十句+α』はこれ自選が50句ないですよね?

ほしいものリストの一番上にあるパーティーグッズ ずっとしんどい/はたえり『多分ごめんね』

花は葉に乱丁のある同人誌/森本直樹