良い旅を

陳浩基『13・67』

 

 

13・67

13・67

 

 

 香港警察の「天眼」と呼ばれる名探偵、クワンを主人公にしたミステリ。香港の動乱に関係して、というわけでは特になく、たまたま少し前から読んでいた。警察官が作中で名探偵と呼ばれているのはやや珍しいのではないか。後述するように、クワンの推理法はいわゆる警察官らしい地道な捜査というよりは、まさに「名探偵」的なもので違和感はないけれど。中国では私立探偵は違法だそうだが、香港の作家による・台湾で最初に刊行されたこの作品には関係あるのだろうか。

 

 個々に完成度の高い短篇を並べて全体で優れた長篇に、というのは言うは易く行うは難しの典型だけれど、この作品ではクワンの強烈なキャラクターによって全体が貫かれることでそれが実現されているように思う。高い推理力は探偵役の前提として、クワンの個性はその凄まじい、と言って良い(日常の態度はそうは見えないものの)正義感だ。
 冒頭で「ルールを守るだけでは、事件など解決できない」と宣言されるとおり、名探偵たる警官は通常の手法では捕まえられない犯人を追い詰めるため、明らかに違法だろうという捜査を連発する。これはフィクションであり、ついでに言えば名探偵の推理は絶対に間違っていないというタイプのもののようだからともかく、リアルに考えると相当に恐ろしい。

 とはいえこの小説は単純に現実にそういうヒーローの出現を望むというよりは、むしろ現実にはいない、いてはいけない存在であるということを前提にしたうえで、それでも望まずにはいられない、という痛切さがかたちになった作品のような気がする。「これまで台湾人作家の作品を読むときによく感じていたことだが、香港人作家である彼もまた、とても実直に、テーマのために小説を書く」という訳者あとがきは、少なくともこの作品にはとてもしっくりくる。訳文も読みやすかったが、訳者は若くして亡くなっているという。悲しい。

 特に好きだった篇は「クワンのいちばん長い日」と「借りた時間に」*1。前者はミステリとして、後者は単純に小説としてという感じ。

 

 クワンの推理は概ね、ごく早い段階で論理的な推理により仮説を立てる→裏付けとなる証拠を探す(場合によっては捏造する)→犯人を名指す・真相が明かされる、というもの。正直超人すぎる。真相が明かされる時点ではたぶん情報はフェアに提示されているのだろうけれど、その段階で解けたとしてもあまりカタルシスはなさそう。

 クワンの推理の傑出したところは「仮説」を立てる構想力にあるので、読者が彼に伍そうとするならば彼が真相に直結する仮説を立てた時点で同様のそれに至っていないといけない。それより後、クワンが仮説のための証拠を集め始めた段階で真相に気づいても、それは「謎が解けた」というよりはせいぜい「クワンのやりたいことが分かった」という印象。そもそも仮説を立てた時点は彼自身が真相を明かすまで分からないし。

 まああまり考えずにクワンの超人っぷりを楽しめば良い気もする。

 

 小説で歴史を勉強した気になる、というのはよろしくないと思うけれど、1967年の反英暴動などはそもそもそれ自体を知らないかったので結果的には良かった。文革や1968年革命に関係するものとして考えてよいのかな(この本のタイトルも『19・68』と間違えそうになる。革命史観なので……)

 昨年あたりから植民地というものについてよく考えているけれど、租借地という一定期間後に返還することが決まっている(借りた側に条約締結時点で本当にその気があったかはともかく)「Borrowed Place」の特質も気になる。香港島九龍半島はイギリスに割譲された領土であったが、ニューテリトリー(新界)は『租借地』であり、一九九七年にその期限が切れる。とはいえ、イギリス政府がそのとき、香港島九龍半島統治権を保持したまま、ニューテリトリーだけ中国に返還することは考えられない」(「借りた時間に」)という記述にある「考えられない」という状況はどのように生まれたのだろう。

 土地勘がないせいが大きいと思うが、地理的な感覚はかなり掴みづらかった。巻頭に地図は付されているが、もう少し詳しいものが欲しかった。せめて主要な道路や航路くらいはあると有難かったのだけれど。

 

以下ネタバレ、というか読んだ人にしか分からない話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最終篇、「クワンは誰か」というのは割と容易に推測できると思うけれど、「そうでない彼」があの人物であることは(他の篇も含めて)どこかに推理の根拠となる記述があったのだろうか。いずれにせよ、最後の数ページはちょっと泣いてしまった。

*1:原題「Borrowed Time」がこう訳されているけれど、「借り物の時間」のほうが良い気もする。twitterで見た意見の受け売りだが。「Borrowed Place」→「借りた場所に」も同様