良い旅を

歌人のルーツの話

 現代において短歌という表現形式はかなりマイナーだけれども、それゆえに生じているちょっと面白い特徴は、短歌はそれが「第一表現形式」である作者の比率が極めて低い形式であることではないだろうか。「第一表現形式」というのは「第一言語」という概念を援用した造語だが、狭義の創作でも演奏のような再解釈行為でも、あるいは単にひたすら耽溺していただけであってもいいから、幼少期から特に慣れ親しんできた、というくらいに捉えてほしい。
 たとえば小説や漫画や音楽であれば、幼いころからそれに親しんできた末に自分でも創作するようになった、という人は多いだろう。映画や演劇やアニメとなるとあまり小さいころからというわけにはいかないかもしれないが、いつかはその作者になろうと心に決めている、ということもありそうだ。しかし短歌となると、子どものころからひたすら短歌を読みふけってきてそのまま歌人になった、という例はかなり希ではないか。例外としてありえそうなのが親(あるいは親族)が歌人であるいわゆる二世、三世歌人だけれども、インタビューなどを見ると彼女ら彼らですら必ずしも幼いころから短歌に親しんでいたというわけでもないらしい。
 加えて短歌を作るハードルは他のほとんどの形式に比べて低い。自由詩ほど長く書かなくてもよいし、俳句みたいに季語を覚えなくてもよいし(どちらのジャンルも第一表現形式としている人の数は短歌より多そうだが)。若者の表現行為などというのはたいていは「俺の歌を聴け」的な欲求に裏打ちされているものだとすれば、それを実現するためには俳句より短歌のほうがいろいろと手っ取り早そう、というのもあるかもしれない。
 その結果として短歌の世界は、漫画やアニメや演劇や写真やガラス細工やロックやヒップホップや小説(は大勢力だろうから日本文学/海外文学/ミステリ/SFなどと細分化できるかもしれない)や、とにかくありとあらゆる表現形式にルーツをもつ作者たちの坩堝となっている。あるいはサラダボウルかもしれないが。そして漫画歌人やアニメ歌人や演劇歌人や…(中略)…たちのルーツは、狭義の創作行為をしていたか否かに関わらず、その短歌作品にどこかで反映されているような気がする。