良い旅を

定型における交換可能/不可能性について ――五島諭『緑の祠』を中心に――

※『羽根と根』4号初出評論を元に、誤字脱字等を訂正した


  


 短歌に興味を持って間もない人と話していると、おすすめの短歌入門書をよく聞かれる。また大型だけれどもそれほど短歌に力を入れていない書店の短歌コーナーに行くと、そのスペースの多くは入門書に占められている。
 短歌の世界に足を踏み入れようとしている人の多くが入門書を求めるのは、短歌という馴染みのなく得体の知れないものを作るには、そのための特殊なスキルが必要だと考えるからだろう。そのような場合想定されている「入門書」は、ほとんどの場合短歌の作り方のいわゆるハウツー本だし、実際世の短歌入門書の多くはそのようなものだ。
 三上春海と鈴木ちはねのユニットである稀風社が発行した『誰にもわからない短歌入門』は、そういった一般的な入門書とはだいぶ趣が異なる本だ。そこに載っているのは、三八首の短歌(ではないものもいくつか存在する)に対する三上・鈴木の往復形式の批評とゲストによる三上・鈴木の歌に対する批評、合計七八個の一首評である。一般的な短歌入門書には間違いなくあるだろう、短歌の用語や技法を体系だてて解説するページもない(もちろん一首評のなかでそれらが説明されることはあるが、到底網羅的ではない)。この本を読んでも、短歌を作ることに直接的に役立つとはちょっと思えない。ではそのような本が持っている「入門」書としての機能はなんだろうか?
 たとえば鈴木は〈ぼくゴリラ ウホホイウッホ ウホホホホ ウッホホウッホ ウホホホホーイ〉(菱木俊輔)を、以下のように評している。短歌コンクールの高校生の部で田井安曇が選び、インターネット上で嘲笑的に(もちろん、と言うべきなのかはわからないけれど、嘲笑の対象となったのは選者であり、ひいては歌壇だ)話題にされたこの歌を取り上げる入門書はおそらく空前絶後だろう。

 昔の人のことはわからないが、少なくとも今の人は誰しも生まれつきに七五調の詩型を知っているわけではなくて、仮にいま僕やあなたが短歌や俳句のような七五調の定型詩を詠むのだとすれば、その意識はきっと後天的に体得されたものなのだろう。多くの場合、僕たちは人生の中のどこかで、何かのきっかけで短歌という詩型に出会って、そして今ここにいる。その出会いを劇的な経験として覚えている人も少なくないはずだ。あるいは、今まさにその出会いの渦中だという人もこの頁を捲っているかもしれない。
(中略)
 この歌にはそういう、未知なる短歌定型と自分が初めて衝突したときの驚きや興奮、新しい玩具を見つけた高揚感のようなものが感じられる。短歌定型のすごいところは、どんな言葉を入れようとも、それを定型が許す限りは、その言葉は短歌になってしまうという点だ。

『誰にもわからない短歌入門』の特色であり素晴らしいところは、眼前にあるものが短歌である(そして短歌でないものであれば、それが短歌でない)という前提にそれぞれのやりかたで愚直なまでに立脚し、自分が「誰にもわからない」短歌というものを読んでいると強く自分に言い聞かせながら短歌を読んでいることだ。その結果として三上と鈴木、それに二人のゲストたちの一首評には短歌というものを少しでもわかることにつながるヒントが数多く記されている(『誰にもわからない短歌入門』を読んだ人ならば、この評論もまたそこから多くのヒントを受け取っていることを読み進めるうちに察すると思う)。
 結論を言ってしまえば、『誰にもわからない短歌入門』は、短歌を読むことへの入門書なのであり、だから作り方の入門書と趣が違うのは当然のことだ。読者は三上と鈴木(とゲスト)が短歌をどう読んでいるかを読むことで、短歌をどのように読めばよいか、どのように読むことができるのかを学ぶことができる。短歌を作ることと違って、読むことに特殊なスキルが必要だということはなかなか意識されづらいが、しかし間違いなく必要なのだ。少なくともそうやって読んだほうが楽しめる。
 では、そういった短歌を読むことに必要なスキルを駆使した、いわば短歌用の読み方とは具体的にどのようなものだろうか? 第一は『誰にもわからない短歌入門』のように、それが短歌であると意識して読むことだろう。なにしろ作者はそれが短歌であると思い、短歌として読まれると思って作っているのだから、そうしなければ多くのものを見落としてしまうことになる。
 他にはどのようなものがあるだろうか。おそらくそれは短歌に固有のルールと関わってくるはずである。短歌に固有のルールとはなんだろうか。明記されているもの、はたまた暗黙の了解、様々なものがあるだろうし、当然人によって採用しているルールも異なるだろうけれど、一つほぼ全員の同意を得られそうなルールがある。それは短歌という詩型の原理的な定義、すなわち短歌は定型詩であり、その定型は五・七・五・七・七である、というものだ。このルールと関係する「短歌用の読み方」があるのではないか、と推測したところで話を進める。


   


 穂村弘の『短歌という爆弾』はあれほど広く読まれていながら「入門書ではないよね」などと言われがちであるけれど、その理由もやはり本の大半(3章「構造図 ――衝撃と感動はどこからやってくるのか」)が、短歌の読み方の入門であるからだ。『誰にもわからない短歌入門』と『短歌という爆弾』は、個性的でありながら同時に普遍的な短歌の本質に迫る読み方を持つ手練れの読者が、実践を通して自らのスタイルを開陳することで短歌の読み方を教え、あるいは挑発するという点で、極めて似通った性格を持つ本だと思う。
 ところで、『短歌という爆弾』の副題は「今すぐ歌人になりたいあなたのために」であるけれど、これはなにか示唆的な気がする。紙幅の大半を短歌の読み方の入門に割く本にこのような副題を付す穂村が考える「歌人」の要件には、もしかすると単に実作者であるというだけでなく、短歌を読むためのスキルを持っているという要素も含まれているのではないだろうか? 実際、「〈読み〉の違いのことなど」(『短歌の友人』所収)という文章で、穂村は以下のように書いている。

 歌人の〈読み〉の場合、それが自分の〈読み〉と異なっていても、〈読み〉の軸のようなものを少しずらしてみれば理解はできることが多い。大きくいえばそれは個々の読み手の定型観の違いということになると思う。
 それに対して、他ジャンルの人の短歌の〈読み〉については、定型観がどうとか〈読み〉の軸がどうとかいう以前に、「何かがわかっていない」「前提となる感覚が欠けている」という印象を持つことが多い。(中略)「前提となる感覚が欠けている」とはどういうことか。これをうまく表現するのはなかなか難しいのだが、例えば、「うたというのは基本的にひとつのものがかたちを変えているだけ」という捉え方はどうだろうか。実作経験のない読み手には、この感覚もしくは認識が欠如しているように思われてならない。

 穂村は「歌人」と「実作経験のない読み手」=「他ジャンルの人」の〈読み〉には差異があると述べている。とはいえ短歌というジャンルが閉鎖的なものだとこれ以上思われてはかなわないので慌てて勝手な補足をしてしまうけれど、これは歌人=実作者にしか会得できない奥義や真理があるなどという話ではなく、おそらく実作経験によって修得しやすい〈読み〉のスキルがある、ということだと思う。*1
歌人」とそうでない人の〈読み〉の差異を説明するために、穂村は「うたというのは基本的にひとつのものがかたちを変えているだけ」という捉え方を提案している。穂村はこの感覚/認識を「歌人はみな無意識的に知っているように思われる」と続けており、「歌人」であるかはともかく、少なくとも実作者である私にも確かにそういった感覚は理解できる。短歌の根源であるというこの「ひとつのもの」とは一体なんだろうか。穂村は評論のなかで。近代以降の短歌における「ひとつのもの」とは「〈われ〉の『生のかけがえのなさ』」ではないかと回答している。

かけがえのない〈われ〉が、言葉によってどんなに折り畳まれ、引き延ばされ、切断され、乱反射され、ときには消去されているようにみえても、それが定型の内部の出来事である限り、この根源的なモチーフとの接触は最終的には失われない、一人称としての〈われ〉が作中から完全に消え去っているようにみえても、生の一回性と交換不可能性のモチーフは必ず「かたちを変えて」定型内部に存在する。それこそが少なくとも近代以降の、短歌という詩型の特殊性だとは言えないだろうか。
 先に述べた歌人の〈読み〉における「復元感覚」とは、このような「生のかけがえのなさ」が、一首の中でどのように「かたちを変えて」存在しているかを把握する働きに他ならない。

 ここで述べられている「ひとつのもの」の正体はモチーフである。しかしフォルムの面から見たとき、もう一つすべての短歌に共通して存在し、根源と言える「ひとつのもの」がある。
 それは右の文章のなかにも姿を現しているものである。そう、定型だ。
 穂村は実作者とそうでない人の読み方の違いについて定型観の問題ではないとしているが、しかしそれは極めてプリミティブなレベルで、やはり定型観の問題ではないだろうか。言い換えれば「歌人」でない人々が「かけがえのない〈われ〉」「生の一回性と交換不可能性のモチーフ」がつねに定型内部に存在するという短歌の特殊性を認識できないのだとしたら、それはそもそも定型の存在を十分に認識できていないために、その作用をも認識できていないからなのではないだろうか。
 この場合の定型観とは、ある一首の歌を読むとき、その背後に「定型」を「観」ることである。実作者は一首を読む際に、その背後に定型を幻視している。そして「ひとつのもの」=定型が「かたちを変え」た結果が、私たちが読んでいる一首の歌であるとすれば、定型は単に五・七・五・七・七の器であると同時に、書かれなかった無数の歌の可能性でもある。陳腐な比喩だけれども、定型は「シュレーディンガーの猫」の箱のようなものだろう。開けられる=書かれるまでは中身がわからない、可能性が渦巻いている容器だ。


 すべての文芸作品は選択に選択を重ねた末に成立するものである。どの形式で書くか、という段階から、既に選択は始まっている。書かれるべき内容が決まっているとき、書くことは数多くの類似する語(類似項は一般に意味になるだろうけれども、あるいは音韻を重視するならば音にもなりうる)の中から、一つの語を選択し残りを切り捨てるという作業を繰り返すことだ。文章はどのようにだって書けるけれど、文章があるあり方で書かれることは他のあり方で書かれないことである。だからこそどうやって書くかを選ばなければならないし、それが文体というものだ。文体を選択する、という言い回しは文体というものの本質を考えれば不正確さを含んでおり、そもそも選択するから文体という概念が成立するのだ。もし一つの内容に対して一つの書き方しかできないのなら、そこにそれぞれの文体スタイルが表れる余地はない。
 しかしなかでも短歌のような定型詩は、その作者に最も厳しい取捨選択を迫る形式であると言ってよいだろう。(多少の破調が許容されるにせよ)器の大きさ、つまり上限の音数があらかじめ決まっている以上、作者が書き込むことができるスペースも制限されている。定型を前提としたとき、なにかを選択することは、他のすべてを諦めることにあまりにも直結する。あることを書くことは他のことを書かないことであり、ある書き方をすることは他の書き方をしないことである。だから定型の内部において、無駄なものの存在は許されない。そこには「かけがえのない」ものしか存在できない。「歌人」は実作を通してそのことを実感していく。
 ある完成した一首の背後には選択されず諦められた無数の可能性、無数の歌があるという認識。つまるところ歌人の短歌の読み方とは、そういった書かれなかったものまで視野に入れて書かれているものを読むことである。目の前に書かれている一首のありかたは、書かれなかった無数の歌をねじ伏せてその位置を占めるに相応しい、ほんとうに交換不可能なものなのか? 作者がこのように書き、他の可能性を切り捨てたのは正当な選択だったのか? 歌会などの場において頻出する「語が動く」「必然性がない」という評価は、ここに書かれている言葉が交換可能なのではないかという疑念の表れであり、書かれなかったものに対する怯えに起因している。
 穂村は入門書や小説誌への連載などといったいわば「歌人」でない読者に向けた文章で、ある歌の一部を原作よりもつまらなくなるように書き換えた改作例との比較によって、原作の魅力を説明するという手法を多用する。これは書かれなかった、作者が切り捨てた歌を可能性の雲の中から無理やり引きずりだして突きつけることによって、書かれた歌の必然性、作者の選択の正しさを強調するという、まさに「歌人」的な〈読み〉の極端な形での実践と言える。


  


 ところで、つねに一首の背後に定型を幻視し、ある歌がそのように書かれている/作者がそのように書くことに相応しい必然性を求める「歌人」らしい読み方を突き詰めると、ある転倒が発生すると予想される。つまり、どんなに修辞的な必然性がなさそうに見えたとしても、、と考えてしまうという逆説だ。


夏の本棚にこけしが並んでる 地震がきたら倒れるかもね
                     /五島諭『緑の祠』


 はじめてこの歌を読んだとき、ひどく戸惑ったことを覚えている。永井亘は「この歌を読んで最初に抱いた感想は、何も言っていないに等しいのではないか、ただそれだけだった」*2と述べているが、私の感想もほぼ同じだった。上句で報告される情景のトリビアルさと把握の大雑把さもさることながら、唐突に地震が起きる可能性を提示し、しかしその結果すらも可能性しか示さない下句はそれにも増して茫洋としていて、こんなことをわざわざ付け加えた意味がわからなかったのだ。しかしほんとうに戸惑った理由は、この軽やかだが単に仮定に仮定を重ねただけに見える下句、特に「かもね」などという放埓な発話体に、なにか強烈な確信が籠っていると感じずにはいられなかったことだ。
 いまの私にはその答えがわかっている。私が感じとったものは、まさに可能性そのものへの確信だったのだ、地震がくるかどうか、こけしが倒れるかどうか、それらは確かに不確定だ。しかし、地震がくるかもしれないこと、こけしが倒れるかもしれないこと、そして倒れないかもしれないことといった可能性があることは確定しているのだ。未来ではあらゆることが起こりうること、つまり不確実さへの絶対的な確信が、この歌にはこもっていると思う。
 しかし私はなぜそんなことを感じたのだろうか? いくら読み返してみても、この歌のどこにもそんなことは書かれていないし、やっぱり何も言っていないようにしか見えない。


 何も言っていないようにしか見えない下句に確信を感じたのは、何も言っていないようにしか見えなかったからだ。
 より正確に言えば、限られたスペースを割いてこんな何も言っていないに等しいことをわざわざ書くのにはなにか理由があるに違いない、それがなにかはわからないけれど、作者にとってこう書かねばならない必然があるに違いない、という思考回路が働いたからだ。作者にはほかのことを書くことも、ほかの書き方をすることも可能だったはずだ。穂村の手法に倣い、たとえば「かもね」を「だろう」と交換すればこの歌はどうなるだろうか。日常に潜むリスクを告発する、というような社会的な文脈で解釈できる「なにかを言っていそうな歌」になったのではないか。しかし作者はそうはせず、あえて「かもね」を選んだ。その理由はなぜだろうか。「地震がきたら倒れるかもね」という曖昧な言い回しは、もしかすると作者にとっては曖昧でもなんでもなく、ほんとうにこのように確信しているからそう書いたのではないだろうか?
 この何も言っていないようにしか見えない下句が、しかし無数のいかにもなにかを言っていそうな下句に勝利して私の目の前にある、と考えるとき、その何も言っていないようにしか見えなさゆえに価値を持つ、という転倒。定型という場においては、一読して*3という逆説、「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」、というメカニズムが存在しうるのだ。
 私は五島がこの短歌定型が生む転倒したメカニズムに極めて自覚的な作者なのではないかと考えている。もちろん五島が実際にそのような考えのもとで作歌したのか私に知る術はないし、五島の歌のすべてがそのようにして成立していると言うつもりはない。たとえば五島の代表歌と言えるだろう〈海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海をみている〉や〈風景に不意に感情が降りてきて時計見て、また歩かなくては〉などは、歌を構成するすべての要素が緊密に連繋して動かすことができない、いかにも交換不可能に見えて実際に交換不可能な秀歌だろう。これから取り上げる歌は、さまざまな方法的試行を行っている(と思われる)五島の歌のうちごく一部にすぎない。しかしそれらは、「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」という転倒の戦略的な利用を目論んで成功している、少なくともそうやって読むことによって輝く歌だと思う。


  


悲しみが湧出しては埋めつくす茶の芽を摘めば少ぅし香る
朝焼けのジープに備え付けてあるタイヤが外したくてふるえる
こないだは祠があったはずなのにないやと座り込む青葉闇
夏の盛りに遊びに来てよ、今日植えたゴーヤが生ってたらチャンプルー
買ったけど渡せなかった安産のお守りどこにしまおうかなあ


 一首目の「少ぅし」という独特な表記、二首目の下句における主語と述語のねじれた関係、そして三首目以降において、歌の一部分だけに登場するラフな発話体。いずれも一読して違和感を覚えるが、その違和感の理由はそれらがあまりにも交換可能に見えるからだ。
 もっともわかりやすい二首目を例に取れば、なぜ「タイヤを外したくてふるえる」、あるいは「タイヤが外されたくてふるえる」ではなぜいけないのだろうか? 同様に「少ぅし」などという表記が奇妙に見えることも、「ないや」「生ってたらチャンプルー」「かなあ」などという部分が周囲から浮いていることも、作者が認識していないわけではないだろうに、この歌はなぜこのように書かれているのだろうか?
 そうやって作者がなぜこのように書いたか、この歌がなぜこのように書かれているのかと疑問を抱く読者は、そのときすでにそこになにかはわからないけれど強い作者の意志が込められていると思っているのである。
『緑の祠』を取り上げている『短歌研究』二〇一四年五月号の作品季評は、穂村弘・花山多佳子・小島なおの三氏が担当している。そこで穂村は以下のように発言している。

ただ、そうすると交換可能に見えちゃうんだよね。あるフレーズが、これでもいいけど、動いて全然違うフレーズもありうるように読めてしまって。それがこれでなくてはいけないのだという感覚をどこから導き出せばいいのか、ちょっとわからないんですよね。

ここで穂村は五島の歌の交換可能性を、否定的な立場から指摘している。一方、座談会の後半では、以下のようにも評価している。

作中に自己の分身を出すと言うよりも、文体や口調、価値観全体にすごくその人の匂いがする。「子供用自転車とてもかわいいね 子供用自転車はよいもの」とか。その人というものを強烈に感じますよね。うっと来るぐらい。

 穂村が五島の短歌にその人=五島の文体や口調、価値観を強烈に感じているのはなぜか。それはまさに五島の短歌には「交換可能に見え」「動いて全然違うフレーズもありうる」部分があると感じているからではないだろうか? 交換可能性を認識しているからこそ「それがこれでなくてはいけない」という必然性を探す必要が生じ、そしてそのどこかにあるはずの必然性を「その人」、すなわち作者があえてこれを選んだという事実に見出したのだ。右で引用されている歌についての穂村の「普通だと、子供用自転車かわいいと提示したらその理由づけをしなくてはという方向に意識が行くけど、それを拒否して下の句で『子供用自転車はよいもの』という。この出し方は生理的であると同時に意図的なものですよね」という評は、そのことを裏付けているだろう。
 他の語や文体でも書けた、むしろそちらのほうが普通だったという交換可能性を読者が認識することは、同時に作者がそれをあえて選択したという事実を認識することでもあり、結果としてその歌には作者性が刻印され、強度が高まるのだ。


午後5時に5キロの米を買いに出てどこかにきみはいないだろうか
栗の花蹴散らしながら行く道のどこかに君はいないだろうか
セロテープで補修したノートのことを覚えていなくてはならない、と
セロテープで補修したノートのことも覚えていなくてはならない、と
最高の被写体という観念にこの写真機は壊れてしまう
見捨ててはいけないという観念にこの写真機は壊れてしまう


『緑の祠』の奇妙な点として、類似したフレーズを持った短歌が収録されていることが挙げられる。特に三首目と四首目などただ助詞一文字・一音の相違点しかないし、その違いが生む意味も確かに読み取りづらい。どんな俳句も「それにつけても金の欲しさよ」をつければ短歌になる、という(俳人歌人も怒らせそうな)冗談は所詮冗談でしかないけれど、しかし一首目・二首目の「どこかにきみ/君はいないだろうか」という下句はあまりに淡く、どんな上句に続けてもそれなりに形になってしまいそうだ。加えて言えば、一首目の「午後5時に5キロの米を」という上句は、このように書かれる必然性が音声面にあることがあまりに露骨であるため、かえって意味の面ではまったく必然性がないように思えてくる。
 このような歌は五島が短歌の交換可能性について極めて自覚的であることの証左ではないか、と私は考えているけれど、先述の作品季評でもこのことについては指摘されており、小島は「何か意図があるのかな」と疑問を発している。しかしこのような型破りなやり口に直面したとき、実際のところ読者が心内に抱く疑問は「どういう意図があるのだろうか」になってはいないだろうか。何の意図もなく、単に作者のミスで見落としただけ、と考える人は少ないだろう。
 ひょっとするとこれらの歌は、読者に短歌の交換可能性を意識させるための、五島からのサインなのかもしれない。


  


 今更だけれどもこの企画*4のテーマは「定型と文体」だ。私はこの評論を定型論としてつもりで書いているつもりで、その論旨は「歌人は短歌を読むときつねに定型を幻視しており、またその読み方を突き詰めることで短歌をよりおもしろく読むことができる」という要約してしまえば穏当であまりおもしろくもないものだ(中途半端に文体のほうにも口を挟んでしまっているあたりに、私の欲張りさと優柔不断さが表れているけれども)。とはいえここまでの議論は、定型の「書かれなかった無数の歌の可能性」といういささか抽象的な側面についてのものに偏った感は否めない。遅まきながら今度は実体的な(という表現もおかしいけれど)定型、つまり五・七・五・七・七の器としての側面について考えてみたい。


 歌人が五・七・五・七・七の器を幻視していることが顕著に表れるのは、破調の歌を読むときだ。言うまでもないが破調という概念は定型が存在するから発生するのであって、破調を認識するためには定型を認識する必要がある。だから「破調」からなにかを読み取ろうとすることは極めて「歌人」的な読み方である。
〈夢らしきものの手前の現実をずっと過ごしているわけだけども〉脇川飛鳥)という歌に対する評で、穂村はいかにも「歌人」らしい読みを披露している。

この結句八音も「いるわけだけど(も)」と「も」の一音をとるだけで定型に収まることになる。では、そのことをもって、この字余りを定型意識の上に成り立つ技法とみなせるだろうか。私にはそうは思えない。この字余りが意識的であることは確かだが、何に対して意識的かと云えば、それは今ここの〈私〉の実感を忠実に再現することに対してのみであろう。ここには定型という「枠組み」を省みた痕跡がないのだ。ただし、この字余りによって実感の再現性は確かに増していると思う。
(文字色は筆者による、以下同様)
(「短歌的武装解除のこと」『短歌の友人』)

 興味深いことに、岡井隆によるかの有名な『現代短歌入門』(この本も本質的には短歌の読み方の入門書だ)においても、同じような指摘がなされている箇所がある。こちらは〈「無名青年の 徒」として歌碑を 建てしもの ひとしく老いて 雪にこもるや〉土岐善麿)への評である。

この第一句の「無名青年の」は八拍であり、三拍の余りということになるが、これは作者土岐善麿の、「無名青年の徒」という言葉への執着が、音数上の約束を犠牲にしてまで、おのれを徹したというかたちであります。字余りのほうがこの際効果的である、などという韻律上の要請から生まれたものではまるきりない。
(『現代短歌入門』第六章「定型について」)

 二つの評はどちらも、破調が作者の定型への技法的な意識(韻律上の要請)から生じているわけではないと指摘している。しかしより興味深いもう一つの共通点は、それにもかかわらず、両者がそれぞれ「『無名青年の徒』という言葉への執着」「今ここの〈私〉の実感を忠実に再現すること」という作者の意志を破調から読み取っていることである。ともに作者に定型への意識、すなわち破調への意識がないことを指摘しているにもかかわらず、なぜその一方でその破調によりにもよって作意を見出そうとするのだろうか。作者が定型を意識していないというのなら、この破調はたまたまそうなってしまったというだけでは済まされないのか?
 穂村の評に明らかであるように、両者は決して作者が定型をまったく意識していない(=破調であると認識していない)と考えているわけではない。指摘の核はあくまで作者が破調にすること自体を目的とし、それを積極的に選択しているわけではないという点にある。つまりこれらの歌でもやはり、定型よりも内容を優先するためという技法的にはいわば消極的な理由であっても、作者があえて破調を採り、定型を退けるという選択を行っていると両者は考えているのである。これらの歌では、それぞれ「『も』の一音をとるだけで定型に収まる」こと、また初句で「三拍の余り」という極端さが、「あえての破調」という印象を強めていると考えられる。
「作者が定型を前提として創作している」ことを前提として短歌を読む読者にとって、原理的にはあらゆる破調が選択の結果であり、そこに何らかの意味を見出すに十分なのだ。そしてそこに技法上の必然性が見えず、かつ回避(=定型に収めること)が可能に思われるとき、どこかになくてはらならない必然性は「定型という器を壊してでもこう書きたい」という作者の強い意志に見出されることになる。これは「書かれているもの」があえて選択されるにあたっての競争相手が無数の「書かれなかったもの」から「そうあるのが普通である」定型に変わっただけで、メカニズム自体は前項までと同じである。競争が厳しいものであったことの根拠が、ライバルの量から質に変わったとも言えるだろう。


 五島の破調の特徴は、定型に(あるいは初句六音や七音など、一般に定型に準ずるものと認められているものに)ほぼ沿った部分と、大規模な破調部分のギャップであり、またその両者が一首のうちに同居することにある。
 このような歌の作りから読者が抱く印象も、やはり「定型に収めることもできたはずだが、あえてそうしていない」というものになるだろう。そういった印象を与えることが破調により強い効果を持たせるのである。


無とは何か想像できないのはぼくの過失だろうか 蝶の羽が汚い
信じることの中にわずかに含まれる信じないこと 蛍光ペンを掴む
くもりびのすべてがここにあつまってくる 鍋つかみ両手に嵌めて待つ
息で指あたためながらやがてくるポリバケツの一際青い夕暮れに憧れる
蝶や黄金虫の羽根が好きだろう肥沃さがあなたのいいとこだろう


 一首目と二首目は類似した構造を持っている。字空け以前の四句まではどちらもほぼ定型に沿っているが、字開け後の結句はどちらも十音と大幅な字余りになっており、また内容面でも四句以前とは断絶している。このような断絶が許されるのならば結句には原理的にはどんなフレーズも存在を許されるはずだ。そうであれば任意の七音を持ってくることは簡単であり、むしろそちらのほうが自然にも思える。しかしそうではなくこのフレーズが使われているのは、なにかこのように書かれなければならなかった必然性、作者にどうしてもこう書かなければならない理由があったからだ……とこの大幅な字余りは読者の思考を誘導する。
 三首目は「くもりびの/すべてがここに/あつまってくる/なべつかみりょう/てにはめてまつ」と読みたい。三句以外は定型に収まっており、また下句では修辞的な句またがりが行われている。そのなかで字余りしている三句は周囲から浮き上がって見える(ただでさえ三句の字余り・字足らずは目立つのだ)。「あつまってくる」ことへの期待感のようなものが高まっていくさまが感じられる。阿波野巧也はこの歌について、「くもりびのすべてがここにあつまって 鍋つかみ両手に嵌めて待つ」という改作と比較し、「定型の五音による滞留を突破することで、そこには新鮮なリズムがあるように思う」と述べている。*5
 四首目は上句が定型に収まっている一方で、下句は二三音もあり、完全に定型から逸脱している。分割するならば「ぽりばけつの/ひときわあおい/ゆうぐれにあこがれる」と三つの句に分けることが妥当だろうか。いずれにせよ、上句が定型であることに油断していた読者は下句で急加速を強いられるし、ここまで長ければどんなに加速しても定型のタイムリミットには間に合わない。それがなにかはまったくわからないけれど、なにか切迫感やあふれ出すようなものがなければこんなふうには書かない/書かれないだろう、と思う。
 五首目は私が特に好きな歌だ。初句・二句では「ちょうやこが/ねむしのはねが」という名詞の途中での句またがりによる韻律への違和感が、かすかな気味の悪さを残す。それに対して「肥沃さ」という通常土地などに対して用いられる、生物に対しては使わないしましてその価値になるはずもない概念を、人間であるだろう「あなた」に対して用いている四句の、その伸びやかな字余りからはほんとうに「肥沃」な感じがして、「いいとこ」というくだけた表現に相応しい「あなた」への肯定が感じられる。


  


 短歌入門書をあれこれとつまみ食いしたり、かと思えば『緑の祠』について論じたり、気がつくとなんともまとまりのない評論になってしまった。どう締めくくればよいのだろうか。
 この評論を書くためにいくつかの『緑の祠』論を読み直して気がついたことは、それらの間で相互に類似したキーワードが提示されていたことだ。堂園昌彦「世界の多層化とそこで働く意志について」であればタイトル通り「世界の多層化」という複雑性と「そこで働く意志」という五島の選択の存在が、石川美南「世界との距離――五島諭の変遷」では(二〇〇八年以降の)五島の歌が「未来の不確実性をあっさりと口にする」点と、また「「彼」はためらいながらも、引く方を選ぶ」*6と、こちらもやはり五島が選択を行うことが指摘されている。すでに引用した永井の評論では、五島の歌の「可能性の提示」という要素が、永井が筒井康隆を引用しつつ提唱する「超虚構短歌」という概念に繋がると論じられている。
 堂園と石川の評論が同じ同人誌に掲載されており、永井が二人の評論を参照したことを明言している以上、共通点があるのは当然かもしれない。しかし「可能性」≒「不確実性」や「選択」というキーワードに興味を引かれる。これらの評論における「可能性」や「選択」はもっぱら内容面についての批評に発しているキーワードであるし、分析されている歌は必ずしも私の評論のそれと重ならない。それでもこの性質は、語や韻律の交換「可能性」が強調され、そのなかから一つを「選択」されていることが見えるために強度が高まっている、という論じてきた五島の歌の特徴と通底しているように思える。
 この評論で扱った歌は、五島の歌のなかでも特に「わからない」と言われがちなタイプの歌ではないかと思うけれども、この評論が五島の歌を少しでも「わかる」ための一助になれば嬉しい。短歌であれ何であれ芸術を「わかる」必要なんて別にないと思うけれども、「わからない」という感覚がその作品を鑑賞する上でなにかの妨げになるのだとしたら、「わかる」と感じられたほうがよいだろう。


 この評論で分析した読み方についてはもっぱら「歌人」を主語にしてきたけれども、もちろんアンケートを取ったわけでもないので正直に言ってしまえばこれが多くの歌人に受け入れられるものかは分からない。「歌人」らしい読み方を論理的に突き詰めれば少なくとも一つの帰結点はここにあると私は信じるが、個々の歌人の実感には当然異なるものもあるだろう。結局のところ私も個人的な読み方を開陳しただけであって、この評論も私なりの短い「短歌入門」なのかもしれない。とはいえそれならば「短歌入門」として力不足でないこと、どこかで普遍性に通じ、他者を挑発する力を持っていることを祈りたい。
 ところで、この評論ではここまで意図的にある可能性を無視してきた(注で少しだけ言及したけれども)ことを告白しなければならない。「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」というメカニズムを成立させるためには、そうする必要があったからだ。
 ふたたび『誰にもわからない短歌入門』に戻りたい。今度はゲストである石井僚一の一首評を取り上げる。石井は鈴木の〈総工費六億円の橋がありそれをふたりは並んで渡る〉という歌に対して以下のような批評を行っている。

この歌には特別な修辞がない。比喩も倒置も句切れも何もない。破調もなく歌はきれいに五七五七七だ。「橋があり」という三句目が短歌らしいといえば短歌らしい言葉の使い方だが、これも口語短歌ではよくある言葉の繋ぎ方でまったく工夫がない。この歌からは短歌らしい情感が何も生まれてはこない。
(中略)
この歌の作者は鈴木ちはねという人だけれども、この歌で言葉を定型に収めることができている以上、最低限の知能はあるはずだ。だから、この歌の文体の選択にもきっと何らかの意思がある。

 作者が発行人の片割れである本にこんなことを書くのだからまったく人を食ったような態度だけれども、ここには「歌人」の読みの転倒が典型的なかたちで表れている。「まったく工夫がな」く、「短歌らしい情感が何も生まれてはこない」歌を目の前にして、そうであるにもかかわらずこう書かれている以上きっと作者が「何らかの意思」をもってこの文体を選択していると推測する。この評論で私が展開してきたものと同じ読み方だろう。
 このように推測するにあたって、石井は作者が「最低限の知能」を持っていて、その気になれば詩的修辞を活用し、いかにも「短歌らしい情感」が生まれてくるように書けるということを前提としている。この前提はすなわち、いま読んでいる歌がこのような奇妙な形をしている理由を考察するにあたって、単に作者の選択が失敗に終わっている、作者が下手であるという可能性をひとまず無視するということである。つまり「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」というメカニズムは、作者に対する信頼があってはじめて成立するのだ。


「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」を頻繁に感じる私の意識の根底にあるものは、ある程度短歌を読みまた作ってきた実作者であれば、その気になれば「わかりやすく」「短歌らしく」書くことは可能であり、むしろそのほうが簡単なのだ、という認識だ。これが乱暴な断定で、それこそ作者を盲信しすぎだということはわかっている。短歌という文学がほんとうにそんなに簡単な、底の浅いものだとしたらとっくに滅びているだろう。それは困る。
 それでも私は少なくとも一度は、どんな歌にもそう思って向き合ってみたい。もしも作者がそういった領域に勝負をかけているとしたら、それをこちらの先入観で見落としてしまうのは失礼だし、とても勿体ないと思うからだ。
 定型というステージの上でだけ使える、何の変哲もない一つの「書かれているもの」を無数の「書かれなかったもの」を倒してきた唯一無二のヒーローや、あるいは強大な定型そのものを壊してしまったモンスターに変身させる魔法。そんなものがあるとしたら、まさに定型の恩寵、短歌の可能性と言うべきではないだろうか? そしてその魔法は、作者と読者の協力によってはじめて発動する。作者が定型を信じる心と、読者が作者を信じる心の両方が必要なのだ。だったら私は、とりあえず作者を信じてみたい。魔法にかかってみたいからだ。魔法が発動せず、ただの詐欺だとわかったら、そのときは遠慮なく文句を言えばいい。



参考文献
阿波野巧也(2015)『口語にとって韻律とはなにか――『短詩型文学論』を再読する――」、『京大短歌』21、京大短歌
石川美南(2014)「世界との距離――五島諭の変遷」、『pool』8、pool
岡井隆(1995)『短詩型文学論集成』(『岡井隆コレクション』2)、思潮社
五島諭(2013)『緑の祠』、書肆侃侃房
堂園昌彦(2014)「世界の多層化とそこで働く意志について」、『pool』8、pool
永井亘(2015)「超虚構短歌への冒険 ――『緑の祠』を中心に」、『早稲田短歌』44、早稲田短歌会
穂村弘(2011)『短歌の友人』 、河出書房新社河出文庫
――(2013)『短歌という爆弾』、小学館小学館文庫)
穂村弘・花山多佳子・小島なお(2014)「作品季評」、『短歌研究』二〇一四年五月号、短歌研究社
三上春海・鈴木ちはね他(2015)『誰にもわからない短歌入門』、稀風社

*1:つまりそのスキルを知っていれば「歌人」でなくともそうやって読むことが可能であり、そして穂村はこのような評論を書くことでそのスキルを公開している……と考えることで、穂村は排他的という謗りを免れるだろう。

*2:永井亘(2015)「超虚構短歌への冒険 ―『緑の祠』を中心に」、『早稲田短歌』44、早稲田短歌会、141p

*3:この「あまりに」が重要であるのは、その露骨さが作者が「あえて」やっているということのサインとして機能するからだ。中途半端にしか「語が動く」、交換可能性が見えなければ、それは単に作者が下手であるがゆえの失敗と切り捨てられてしまう。

*4:『羽根と根』4号でのもの。本企画は阿波野巧也の提案により、ゲストとしてフラワーしげる氏、千種創一氏にご寄稿いただいた。

*5:阿波野巧也(2015)『口語にとって韻律とはなにか――『短詩型文学論』を再読する――」、『京大短歌』21、京大短歌、139p

*6:(詞書:鶴岡八幡宮〈大吉を引けばいいけど引かないと寂しさが尾を引く、でも引くよ〉 を引用している。