良い旅を

ロシア・プレミアリーグ2015-16シーズン第20節 ゼニト・サンクトペテルブルク vs ルビン・カザン

 夢に出てきた2人の非実在オタクが「黒木ほの香と前川涼子の“まだまだこれからなんです!”*1の素晴らしさを語り合っていたと思ったら、突如3年以上前にロシアで観たサッカーの観戦記を書けと脅してきて本当に怖かったので書く。日本語で書かれるスタディオン・ペトロフスキーの観戦記はたぶんこれが最後だろうし、声優ラジオの話題(なのかすら怪しい)から始まるものは空前絶後だと思う。

試合まで


 ロシアに一か月ほど短期留学することになって、初の日本国外でのサッカー観戦をすることに決めた。留学先がサンクトペテルブルクであることを考えれば、観る試合は同地で唯一のプレミア所属クラブ、ゼニトのホームゲームになるだろう*2。代理店などを通せば日本からチケットを買う手段もあることにはあるようだったが、手数料がかかるのも馬鹿らしいので行けばなんとかなるだろ精神で旅立つ。現地に着いてから留学中にUCL(ラウンド16、vsベンフィカ)もあることに気付いたが、既にチケットは完売していた。さすがはCLといったところか。
 改めてウィンターブレイク明けのホーム初戦、3月13日のルビン・カザン戦に狙いを定める。ルビン・カザンは2000年代後半にはプレミア連覇の経験もあり、UCLでも悪名高い? 6バックでバルセロナを苦しめたことで名を馳せたそうだが、この頃は既に国内でも中堅程度の立ち位置になっていて、まあ勝ち試合を観られるんじゃないかという下衆な期待もあった。


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 ゼニトのオフィシャルショップ「ゼニト・アリーナ*3」はサンクトペテルブルクのメインストリート、私が勝手にペテルの四条通と呼んでいたネフスキー通りに面している。カザン聖堂や、私が今まで見た建築のうち最も美しいと思った血の上の救世主教会にもほど近い店は、新しくてきれいだった。グッズのラインナップはJリーグと大きくは変わらない。違いはJリーグでは定番のタオルマフラーがない一方、ニットマフラーやジャケットなど防寒具の類が充実していたこと。マフラーには過去のUCLなどのビッグマッチに際して作られたと思われる、対戦する両クラブの要素が半々に入ったものも多かったが、大幅に値下げされているわけでもないそれをいまさら買う人が果たしているのかは不明。


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 店内にはクラブの栄光の歴史を讃えるゾーンもあり、なかでも一番誇らしいものは2007-08シーズンのUEFAカップ優勝のようだった。


 ゼニト・アリーナは時間がある日は毎日のように通っていたエルミタージュ美術館(国際学生証を見せると無料で入れる)から宿までの道のりにあったので何度となく立ち寄っていたが、ネイティブの幼稚園児レベルのロシア語力で電子機器を操作してチケットを発券するのに怖気づき、なかなか踏み切れなかった。機械はこちらの意図を推測してはくれないし、ボディランゲージも通じないから。かといって目の前に専用の機械があるものを人間から買うのもどうにも気が引ける。試合が迫ってきたのでようやく腹を括って買おうとしたが、紙幣が呑み込まれたまま戻ってこないというまさかの事態に。店員を呼ぶとどうも偽札が交じっていたらしく、街中の適当な両替所を使ったのが悪かったのだろうか。ともあれ呑まれた額は大したものではなかったし、試合のない日にスタジアム脇のクラブ事務所に行けば返してくれるとのことだった。

当日


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 スタディオン・ペトロフスキーはメトロのスポルチーヴナヤ駅(そのまま「スポーツの」という意味)を出て少し歩いたところにあり、近づくとそれを環状に取り囲む警備員に行く手を阻まれる。セキュリティチェックを終え、環を抜けて進んでいくと一回り小さい環があり、またセキュリティチェック。チケットを切るときも、スタンドへのゲートでもセキュリティチェック。いちいちホールドアップさせられ全身を触られ、荷物の中身を全てぶちまけられる横を、おざなりなチェックで解放されるロシア人たち(男性ばかりだ)が追い越していく。人種差別だろ、と思うが、中国系と思しき男女が私よりは明らかに軽いチェックで通されていたのを見ると、表面が傷だらけでところどころ羽毛がはみ出しているダウンジャケットに、穴が開いている(のは一目では分からないと思うが、ボロボロなのは明らか)ボトムスという格好も悪かったのかもしれない。まあ単に若い一人者という属性が警戒されていたのかもしれないが。


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 コンコースは建築物の中にはなく、外周の屋外からゲートを通ってそのまま入るスタイル(三ッ沢みたいな感じ)だったと記憶している。プレハブのようなトイレにも風が吹き込んでくる。収容人員は20985人。一層式のスタンドは、観やすいわけではないが日産ほどピッチから遠いわけでもない。なんというか、実に「旧共産圏の陸上競技場」という感じ。


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 ゼニトのウルトラス。向かって左下の見切れている横断幕は「НАШЕ ИМЯ ЗЕНИТ」で、スローガンの類として扱われているよう。「俺たちの名はゼニト」くらいの訳でよいだろうか。反対側のゴール裏もほとんどはゼニトサポーターで、大仰なフェンスに囲まれたゾーンにいるはずのルビン・カザンサポーターは探すのに難儀するほど少なかった。日曜のナイトマッチで、サンクトペテルブルクからカザンは直線距離で1200km以上(日本だと仙台―鹿児島よりも少し遠いくらい)離れているのだから無理もない。
 バック/メインスタンドはそれなりには埋まっていたが、しかし席を探すのに苦労するほどではない。リーグ公式の試合記録だと観客は16797人となっているけれど、収容人員の約80%が埋まっていたとは写真を観ても当時の体感からしてもちょっと信じられない……。いずれにせよ、ロシア有数のビッグクラブのホームゲームとしてはやや寂しい印象を受けた。


 日本ではありえないほど早めに座席に着いたが、それが仇になったかキックオフ前に身体の異常に気付く。震えが止まらない理由は容易に推測出来て、単純に寒すぎるのだ。上の写真がいかにも適当に撮られているのも多分そのせい。
 サンクトペテルブルクは緯度こそ高いものの、決して極寒というわけでもない。冬季の平均気温は旭川よりも高いくらいで、昼間はあちこちを散歩して回っていた。しかし夜に風を遮るものもない場所で動かずにいる、というシチュエーションでの体感温度は段違いに低く、どんどんと体力を奪われていたらしい。
 このままでは凍死しかねない、というのは大袈裟にしてもそれくらいの苦痛のなかで、旧国立競技場では自動販売機のカップラーメンが暖房と言われていた、というジョークを思い出し、なにか温かい食べ物で暖を取ることにする。コンコースには特別凝ってはいない、まあいかにもスタジアムにで売っていそうな食事がそれなりに売られていた。一番安くて暖房になりそうなオニオンスープを買ってスタンドに戻ろうとすると、またホールドアップを要求される。オニオンスープを自分の頭にぶちまけるのは勘弁したいのでホールドアップする間これを持っていてくれと頼むと、苦笑いしながらそのまま通してくれる。ありがたいのだがセキュリティ的にはそれでいいのか。


 ゼニトのスタメンはロディギン、スモルニコフ、ロンバーツ、ネト、ジルコフ、ダニー、シャトフ、マウリシオ、ヴィツェル、ジューバ、フッキ。ロディギン、スモルニコフ、シャトフ、ジューバはロシア、ダニーはポルトガルヴィツェルはベルギーの現役代表だった。ベンチにもロシア代表のユスポフ、ココリンに元イタリア代表のクリシート、スペイン代表歴のあるハビ・ガルシアという実に豪華な面子。とはいえこのメンバーも上記の公式記録を見て書いているし、当時の私はその豪華さを十分に分かっていたとは言えないが。とりあえずフッキが出ていることに満足し、ロシア代表組で唯一認識していたココリンがベンチなことが残念というくらい。
 肝心の試合の内容については正直あまり覚えていない。かなりゼニトが押し込み、攻撃陣の良いところが目立つ展開のなか、ダニーとジューバの2人を気に入ったことをぼんやりと記憶している。この時点でゼニトで8シーズン目だったキャプテンのダニーはいかにもポルトガル人の10番、というテクニシャンで、華のあるプレーをしていた。クラブショップにもフッキと同等かそれ以上にグッズが売られていてサポーターからの人気の高さが窺えた。大型FWのジューバはおそらく私がいままで現地で観たサッカー選手のなかで一番フィジカルが強い。この手のタイプは必ずしも好みというわけではないけれど、現地観戦だとその肉体の発散するエネルギーには抗いがたい魅力がある。
 試合はダニーが2ゴール、ジューバとフッキがそれぞれ1ゴールを挙げ4-2で勝利。



Highlights | Zenit Saint Petersburg 4-2 Rubin Kazan


 Youtubeにゴールシーンのハイライトがあった。というかルビンのゴールが2点ともけっこう凄い。
 試合後のスポルチーヴナヤ駅は入場規制がされていて、隣の駅まで歩いた。

その後


 後日、スタジアム横にある事務所に発券機に呑まれた金を返してもらいに行く。ごく普通のオフィスの入り口で店員が裏書してくれたレシートを見せると、すぐに剥き出しの紙幣を持った職員が出てくる。この間の試合を観た、ゼニトが勝って嬉しい、というようなことを拙いロシア語で伝え、少々会話をした。
 帰国直前、エルミタージュのすべて*4をなんとか観終えた帰り道で最後のゼニト・アリーナ訪問。自分用に例の「НАШЕ ИМЯ ЗЕНИТ」が入ったニットマフラーを買う。できればゼニト要素オンリーの(=上述のビッグマッチ記念系以外)、キリル文字が入っているものが欲しい、という条件では選択肢は少なかった。ここはロシアなのにラテン文字・英語のものばかりなのは意味が分からない、と当時は思ったが、今考えると日本ならばラテン文字でないマフラーなんて一つもないクラブも珍しくなさそうだし、そんなに理解不能な話でもない。
 土産は友人のために使い捨てライター、フッキの肉体が好きだと言っていた(しかしそれ以外にサッカーの話をしているのは聞いたことがない)先輩に上半身裸のフッキのポストカードを買った。そういえば使い捨てライターもJリーグのグッズではお目にかからない。


 あれから3年半が経った。件のニットマフラーは愛用しているし、海外の*5好きなクラブを訊ねられたらゼニトと答えてきた。昨年のワールドカップでロシアに肩入れしたのも、ジューバを筆頭にゼニトに縁のある選手の存在が大きい。けれどもあれ以来ゼニトの試合をちゃんと観たことは一度もないし、日常的に情報をフォローしているともとても言えない。
 ゼニトのほうも2017-18シーズンからはついに完成した新スタジアム、ガスプロム・アリーナに移って、すっかり様変わりしたようだ。



Highlights Zenit vs CSKA (3-1)


 収容人員62315人の大半が埋まっているスタジアムの雰囲気は、相手がCSKAだということを差し引いても、あの夜のスタディオン・ペトロフスキーとはかけ離れている。観客の40%が女性になったという記事を観たときは俄かには信じがたかったが、このスタジアムならばまったく有り得なくはないかもしれない。
 そもそもガスプロム・アリーナは本来なら私が行った時点でとっくに完成していたはずで、ロシアらしい計画のいい加減さ*6を当時は恨んでいた。しかし今こうして思い返してみると、あの典型的な「旧共産圏の陸上競技場」で観戦できたことをは、やはり得難い経験だった気がする。最新鋭のサッカー専用スタジアムは今後も日本を含めた世界中にできるだろうけれど、ああいった競技場は減っていくばかりだろうから。


 ダニーはあの試合の翌月に負った前十字靭帯断裂でEURO2016出場を逃し、その後のキャリアも下り坂に。現在は無所属で半引退状態らしい。ジューバはゼニトと代表のエースとして活躍しているが、一度監督のマンチーニに干されてレンタルされたとき、ゼニト戦に自ら違約金を払って出場して同点ゴールを決めたというエピソードがいかにも彼のイメージに合っていて笑ってしまう。一方直前の怪我で地元でのワールドカップ出場を逃したココリン(代わりに入ったのがジューバ)は暴行事件で投獄されているという無常。フッキはご存知の通り上海上港に移籍して、ACLJリーグ勢に立ちはだかっている。

*1:私は一度も聴いたことがないし、出演者についても『アイドルマスター シャイニーカラーズ』で双子の役をやっているらしいということくらいしか知らない。ちなみに向かって左側のオタクは「2人が恋人同士という設定が最高」などと言っていたが、そんな設定はないと思う

*2:サンクトペテルブルクのゼニト以外のクラブは移転や解散を繰り返していて、2部以上の全国リーグにいるのはゼニトのみ、ということが多い。モスクワ勢はプレミア常連だけでも4クラブもあるのとは対照的だ

*3:後述のガスプロム・アリーナが開業して以来、ロシア語で「ゼニト・アリーナ」と検索してもそちらばかりがヒットしてしまう。改名したほうが良いのではないだろうか

*4:閉鎖中やツアーでしか入れない箇所を除く

*5:多くのサッカーファンが「海外」と言ったとき暗黙のうちに指しているヨーロッパにロシアが入るかは永遠の問題だが、少なくともサッカーにおいてはUEFA所属なのだから文句を言われることはないだろう

*6:どこぞの国の国立競技場に関するグダグダっぷりを考えれば、他所のことを言える筋合いはないが