「ブログに還れ」を提唱する*1私は、他者が自分の語りたいものについてまとまったかたちで語ってほしいと思っているので、こういう記事が読めると嬉しくなる。
本来はまず元の評論についてちゃんと言及すべきなのだろうけれど、ここでは元評論へのTwitterでの反応に対して書かれた(と思われる)補足に興味深いトピックがいくつかあったので、こちらを中心に書くことをお許しいただきたい。
実績と評価・報酬
「実績」や「評価・報酬」が何を指しているのか最初わかりづらかったけれど、後の文脈から考えると、実績=優れた成果(ここでは短歌作品・評論)、評価・報酬=その成果に対する反応・言及、ということだろうか。「『短歌をやめないでほしい』と伝えてしまうことの暴力性」を自覚した上で、それでも「これからも面白い文章・作品を読みたい」からやめないでほしい、と欲望してしまう作者に出会うことで葛藤が起こるのはとてもよくわかるし、その結果として元評論のような文章が書かれるというのも納得がいく。「勝手に『短歌』を共犯者にしてしまった」という点は、私としては特段問題があるとは思わなかった。そもそも青松さんが短歌をやめたら「短歌にとって思ったよりも凄い損失になってしまう」と本気で思っているからああいう文章を書いたのでしょう? 「短歌」を共犯者にすることと、「短歌」のために罪を犯すことは違うし、この評論をどちらかに分類するなら後者だと思う。
「評価」→「報酬」という比喩には直感的に反感を抱いた。その理由を言語化するなら、評価を量的なものとして捉えている感触や、あるいは自分が報酬だと思える評価(反応・言及)しか評価と認めないのでは? という疑念を抱いたから、というあたりか。一方で、冒頭で述べたように私はブログやnoteで書かれる短歌についてのまとまった文章が好きで、そういったものを読んだらなるべく反応するように心がけている*2。そこには書いてくれたことへの感謝と、次も書いてもらうためのモチベーションになればという下心があるが、そういった意識の総合として「報酬」を与えている*3、という喩はしっくりきた。
また、これは引用する水沼朔太郎さんのツイートで言われていることのほぼ焼き直しだけれど、岐阜さんの論はある読者が作者に対する評価を、している/していないの二元論的に捉えすぎなのではないか? と思う。
個人的には青松さんは適切なかたちで評価されてると思うけどな。ただ、この適切な、というのはもちろん含みがあってたとえばだけど部分的にはおもしろくても手放しで称賛はできないから言及まではしない、みたいな人々やまだ興味を持ち始めて様子見(というのも変な言い方だけど)の人々もいるのでは
— 水沼朔太郎 (@smizunuman) 2019年8月31日
と書いた以上はわたしの青松さんへの評価(?)も書いておくべきかと思うのだけど、おもしろいかおもしろくないかでいえばとくにきちんと書いた歌論はおもしろい。その一方で価値観の違いから好ましいとは思わない言説も散見されるし、たとえば新人賞や評論賞の応募原稿は読ませてもらったけれど
— 水沼朔太郎 (@smizunuman) 2019年8月31日
賞に値する原稿だとは思わなかった。けれど、だからといって青松さんに興味をなくすなんてことはない。ブログやネプリはかかさず読むし新人賞や評論賞を受賞することがあればうれしい。でも現状大絶賛はできないです。岐阜さんに答えるならここまで書かないといけないかなとなったので思うことを書いた
— 水沼朔太郎 (@smizunuman) 2019年8月31日
あと思うのは潜在的な支持層や反対に潜在的な反対層になんらかの表明を求めたい気持ちはとてもよくわかる(岐阜さんの文章では支持層のみだけど)し自分の話をする恥ずかしさを承知で言えばわたし自身も直接そこまで言ってくれるならもっと公的な場で支持を表明してほしいと悔しい思いを何度かしている
— 水沼朔太郎 (@smizunuman) 2019年8月31日
のだけど、さっきの話にもつながるようにおもしろいにも様々なニュアンスやグラデーションがあると思うんですよね。だし、人によって表明の仕方に違いや温度差もある。当たり前だけど、声のでかい人の思いが一番熱いわけでもない。だからこそ、声を出してほしいということなのかもしれないけれど
— 水沼朔太郎 (@smizunuman) 2019年8月31日
自分のやめてほしくない人間はもしかしたらやめてしまうかもしれない、という恐れがあり、かつそれを防ぐために他者の評価が役に立つ可能性が少しでもあると思うとき、もっと評価=反応・言及が増えることを望む、そのために隗より始める、というのは誠実なやり方だと思う。
しかし「(筆者註:青松を)評価している人間が潜在的にはいる」という前提に立っても、それこそ岐阜さんのようにすごく評価している読者もいれば、ある程度評価している、面白いと思っているが、仮に青松さんが短歌をやめてしまってもどうしようもなく悲しくはないし短歌(界)にとって決定的な損失だとも思わない読者もいるだろう。そしてたぶんほとんどの読者にとっては、前者のカテゴリーに入る作者よりも後者に入るそれのほうがずっと多い。ある作者が「ある程度評価している」多くの作者のうちの一人でしかない読者に、他人が評価の表明、報酬を与えることを求めるのはまあ無理筋だし、それをしないのは怠慢だ、そのせいであの人が短歌をやめてしまうかもしれない、などと言われても、それならやめてもらって結構、嫌な言い方をすれば、報酬を与えられなければやめてしまうようなやつはやめちまえ、と返されるだけなのではないか。岐阜さん自身が言う「短歌をやめたいひとはやめた方がいい」というのはまったく正論なのだから。
個人的には「若手」=歌歴のあまり長くない人に対する、特に作家論的な評価には抵抗を感じる部分もある。まだ自分のスタイルを確立していない作者が、ともすればその評価を内面化してしまい、結果として可能性を狭めてしまうことを恐れるからだ。どれほど自覚的にかはさておき、評価されたように書こうとする、自己模倣に陥る、など。それは作者を馬鹿にしすぎている、というのはもっともだ。しかし一方で「若手」はまさに「報酬」を与えられることが少ないので、数少ないそれを必要以上にありがたがってしまう、ということは有り得ないとは言えないのではないかと思う。少なくとも私にはその経験がある。
作風や短歌(文学)観のようなものは一応程度に固まったと言えるまででもそれなりに時間がかかるはずで(そもそも完全に固定されるなんてことになったらもうそこで終わりでしょう)、あまり早いうちから個々の作品を超えて「作者」について過剰に語るのはよくないよなあ、と思う
— さく (@saku_cakey) 2017年5月10日
作者として語りたくなる気持ちもわかるし(私もするし)、語られたひともそれはそれとして受け止めても反発してもスルーしてもよいけれど、ともかく自分(の作風)についての言説に自分(の作風)を寄せていく、なんてことだけは決してせずにお互いがんばっていきましょう、というありきたりな話
— さく (@saku_cakey) 2017年5月10日
昔ツイートしてた。
権力について
一般論として、事実権力関係が存在する状況で*4、「すべては平等である(べき)」という論を強調することは、結果として権力関係の隠蔽、保全につながる。そして例示をそのまま引けば、「次席」と「歌集」を持つものが、その両者とも持たない人よりも相対的に強い権力を有する場合は、そうでない場合よりも多いだろう。一方で、歌壇*5全体のなかでの権力、立ち位置がどれほどか、というのはまた別の問題でもある。
これはややもすればより権力のある人間によるマンスプレイニング的*6行為、卑俗な言い方をすれば「老害」的振舞いと取られるかもしれないけれど、学生短歌会の現役世代の人と話していると、すぐ上の世代(24-30歳くらい?)の、特に学生短歌会出身の歌人の権力・影響力・認知度を過大評価しすぎでは? と思うことがある。新しく登場した・しつつある歌人について、おそらくは歌壇の大方よりも敏感だと思われるあなた(たち)は、昨年の新人賞や第一歌集をいくつ覚えていますか? 新人賞や歌集という極めて分かりやすい「実績」を挙げた後に注目される作者は、結局のところその前から注目されていた人だけである、という世知辛い状況があると思っているので、賞や歌集を「『歌壇』に発掘されている」ことの根拠にするのは、やや雑な物言いかなと感じた。
ついでに評価・報酬に絡めた話をすると、私がこの3年以内に発表した短歌作品・評論のうち、Twitter上で片手の指を超える言及を観測できた*7のは、『歴史について』(それも機関誌への初出時とブログ公開時を合わせて)だけだった。賞や歌集の実績があるわけでもない私は文脈から外れるけれど(別に皮肉ではない)、まあもしかしたら多少は有名に見えるかもしれない私でも、得ている「報酬」はこの程度ですよ、という例として。自分に対する評価なんてものは公開されないのが普通だと思っておいたほうがいい、なんていうふうに態度にまで口を出すと、ますます鬱陶しい先輩になってしまいますが。
青松輝の作品について
短歌、これくらいでいいですか?こっちも忙しいんで……
おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃって生きてたらはちゃめちゃに光ってる夏の海
青松輝「フィクサー」『第三滑走路』7号
元評論の冒頭に引かれているこの歌について以下のツイートをして、青松さんからリプライをいただいた。
https://t.co/pZglvMKvXN
— さく (@saku_cakey) 2019年8月31日
言い忘れていたけれど記事で引用されている「短歌、これくらいでいいですか?こっちも忙しいんで……」という詞書がついている歌については「いやいいわけないしそんなこと言うならやらなきゃいいのに」と思いました(作者ではなく作品への評価ですが)
孫引きだし連作? 全体を読めていないので私の知らない趣向があるのかもしれないが
— さく (@saku_cakey) 2019年8月31日
わざわざこんなこと作者が言うのもバカらしいですけど、この詞書自体は最後の歌についていて、ネットプリントで短歌を書いてるくせに「短歌、これくらいでいいですか?」とか言って締めてくるおふざけ、みたいなニュアンスのつもりで書いてるしそう読めると思います。
— ベテラン中学生 (@_vetechu) 2019年8月31日
この記事だと僕が自分のことを有能だと思ってて調子に乗って短歌をナメてるから「このくらいでも良いですか」と言ってる、と読めるかもですが、意図としてはツッコミ待ちのおふざけというか。それでもなお「言わなくて良くない?」と思われる人はいてもいいですが、変に受け取られたくないので一応。
— ベテラン中学生 (@_vetechu) 2019年9月1日
この歌を読んで、まさに「ツッコミ待ちの歌」だと思い、それならキツいポーズの言葉でツッコんでもいいだろう、と最初のツイートをした。
その上で言えば、私はツッコミ待ち、おふざけとしても面白いと思わず、イラっときた、というのは正直なところある。詞書は字義通りに受け取ればやっぱりナメているし、歌と合わせて読んでも、ナメてるというポーズ=ツッコミ待ちの作り方としてもいい加減すぎる、ナメていると思った。この歌が連作にあるという情報や、「ネットプリントで短歌を書いてるくせに」という作意を知っても、今のところその評価は変わらない。良くない歌にしかつけられない、何かの間違いで良い歌についていたとしてもそれを良くないものとして読ませる詞書に何の価値があるのだろうかと思う。
一方で、歌壇における権力を一旦置いておいても、学生短歌界隈の現役学生とOBという点を考えると*8、青松さんの作品に対する私の発言が抑圧的な力を持つ可能性はある。批判的な意見を述べるのであれば、感情に任せた雑なかたちですべきではなかったと反省している。
青松さんの作品はあまり読んだことがないし、今のところ強い印象は持っていない。批評家、「ブログに還れ」を実践している一人としての青松さんに対しては、「短歌(界)にとって決定的な損失」だとまでは思わないにしても、言及する=報酬を与えたくなるレベルのものを書く人だと思っている。
奇しくも私が「やめないでほしい」と願う歌人の一人である佐久間慧を中心とした評論。特に最近の佐クマ*9についての評は、簡潔ながらもとても鋭いと思う。
論の本筋とは少しずれるけれど、私に一番刺さったのは以下の部分。
で、佐久間慧は確実に永井祐の一歩先を行けてるな、と感じて、そこが「なんたる星」のはだしさんと並んで二人を僕がすごく推している要因になってる。自分としても、作るとき、読むときにつねに永井祐の影をいろんなところに発見してしまうからこそ、永井祐以降、までいけてると感動しちゃうというか。
「永井祐の影をいろんなところに発見してしまう」人は割といるのではないかと思う。しかしそのことが評論として、しかも「永井祐の一歩先を行けてる」歌について論じるもののなかで語られたのは、パンドラの箱を開けられた感がすごかった。
いまブログを読み返したら、最新記事に「8月中に短歌関係の記事も上げようと思ってる」と書いてあったので期待しています。
作品についても言及しようと思って「第三滑走路」の8号を刷ってきたけれど、それはまた後日。
*1:この記事はnoteだけれど、要はTwitterよりも主張を展開するのに向いていて、かつ検索にヒットする媒体ならなんでもよい
*2:実際どれほどできているかは課題だが
*3:率直に言えばこの文章についてもそうなれば、という思いはある。こんなもん押し付けられても困るわ、と言われそうだが
*4:人間社会において権力関係が存在しない状況が果たしてあるだろうか?
*5:という語があまり好きではないので最近は「短歌業界」という表現を多く使っている
*6:マンスプレイニング - Wikipedia マンスプレイニング - Wikipedia 、これ自体造語なのだから筋の悪い持ち出し方だが
*7:いま検索したので、消えたり非公開になったりしているツイートもあるかもしれない。私の検索術は信頼してほしい
*8:青松さんと私は同時期に在籍していたわけではないし、個人的な接点はないが
*9:名義が変わっている