良い旅を

『Q短歌会機関紙』第二号

 第二十九回文学フリマ東京で購入。機関紙なのか機関誌なのか。表紙や奥付は「紙」だけれど、巻頭言は「誌」になっている。辞書的には「誌」と呼ぶべき形態だと思うけれども。
 会員の連作・一首評に加え、ゲストの岡野大嗣・初谷むいの作品とダブルインタビューが掲載されている。


この先コンビニはありません こういうのすぐ撮るよね、いい感じに撮れた?
/岡野大嗣「ゆきとかえり」


 歌を複数の部分に分けてポリフォニックにする、というのは現代短歌ではだいぶ定着した手法だけれど、この歌では最初の声と思われたものが実は「声」ではないところに裏切りがある。そして三句以下の(今度は正真正銘の)「声」の発話者がいて、それを受け取っている、看板? を撮った、沈黙の「声」の発話者がいる。短歌一首に三人以上の人間を、いわゆる「顔を持つ」ものとして登場させるのは難しいなんて言うけれど、この歌には二人と一枚(?)が実に生き生きと登場していると思う。


 ダブルインタビューはめちゃくちゃ長い。これで何万字くらいになるのだろう。
 聴き手側が自身の主張をどんどん展開するところが、良い意味で学生サークルの機関誌っぽいなあと思う。

岡野:音楽だと初期衝動みたいなのが出てることが多いじゃないですか、1stアルバムとかって。歌集って結構みんなある程度経ってから出すから、ホントは載せてても良いような、ちょっと青臭いやつとかが載らなかったり落ちたり自分で削ったりすると思うんですけど、
青松:1周してから出す風潮はありますよね。8年くらいやってこう……見えてきた、みたいな。
岡野:みんな第3歌集みたいな第1歌集になってくるような気がして。


 確かに、と思った。最初数年の歌は全部捨ててしまうという人もけっこういるけれど、そのなかにも好きな歌が合ったりすると勿体ないなく感じる。
 歌人は歌集を出すとき、自らの美意識にそぐわない歌は徹底的に捨てがち(まあ出したことないから本当のところは分からないが)で、それが美徳とされる傾向もある気がするけれど、もう少しファジーに作っても良いのかもしれない。

青松:今、2019年に生きてる(ほとんどの)人って、短歌を好きになるより(前に)絶対に音楽とか、他のカルチャーを好きになるフェーズがありますよね。最初に好きになるカルチャーが短歌って、あんまりない。

 この記事で書いた話とたぶん近い。 

初谷:あと新鋭短歌で好きな歌集は、学生短歌が大好きな『トントングラム』、『緑の祠』。
青松:その二冊は学生全員読んでるんじゃないかとっていう。
初谷:学生全員読んでる説ありますね。みんな大好き。


 私はその2冊が刊行された頃まだ学生だったけれど、特に『トントングラム』に関しては、「学生短歌(会)」とは割とフィールドが違うものだと思っていたので、今はそうなっているのかーと思った。『緑の祠』にしても私はとても好きだけれど、「学生全員読んでる」という印象はまるでなかったし。もっとも私は早稲田短歌会と言う学生短歌会のなかでは相対的に規模の大きい団体にいた一方、他のサークルとの交流はそこまで多くなかったので、「学生」で想像している層が違う可能性はある。


 インタビュー中で引かれていた歌から。


炭酸のペットボトルに花をさす 猫扱いもうれしかったよ 今さら?(笑)
/初谷むい


 定型が終わってからすべてをひっくり返す「今さら?」のみが強く記憶に残る。アンチ短歌的短歌?


ぼくはもうこれがトゥルーマン・ショーだって気づいたぜ ロン 九蓮宝燈ちゅうれんぽうとう
/濱田友郎


 何度見ても名歌だと思う。九蓮宝燈和了る機会があったら絶対に言いたい。もう何年も麻雀やってないけれど。


 会員の連作は10本・一首評は1本。巻頭の目次に会員作品の情報がなかったので、中扉にはあるかと思ったがなかった。目次はつけてほしい。


ハイスピードカメラでゆっくりな動画を撮ってよなにかを忘れるほどゆっくりな
雨の音 というより金属の音 うるさい うるさくて眠れない
/青松輝「metaphor」


 ハイスピードカメラで動画を撮ってほしい、という現代的な・些細なものだったはずの要求が、歌の終わりには、なにか呪術的な、不穏で危険な求めに変化している。
 サッカーのVAR*1で、スロー再生をするとファウルにより厳しいペナルティを科す傾向にある*2という問題も思い出した。「スローは強さ・速さ、インパクトの衝撃が全部見えなくなって、『ぶつかったかどうか』という現象だけにな」るという話が端的に表しているように、ひどくゆっくりな映像は現実感を喪失させるから、その延長で記憶を失うこともあり得るかもしれない。大幅に字余りしていた上句から下句でほぼ定型に収まることにより、読みが減速されることともシンクロし、この下句自体が「なにかを忘れるほどゆっくりな」ものなのにも感じられる。とても好きな歌。
 二首目、「うるさい」と言っているけれど、歌のトーンはまったくうるさそうに見えない。そのせいで「うるさい」と感じている主体の内面がむしろフォーカスされる。
 連作としてもとても良かった。


何でもない日に僕たちはおしゃれして行くんだスタジオ・アリスに狩りに
/佐藤翔「この町はリバー」


スタジオマリオ」でも「カメラのキタムラ」でもこの歌は駄目なわけで、歌のなかで固有名詞が効いている、チョイスがうまい(いわゆる「語が動かない」)というより、むしろこの歌に相応しい固有名詞がこの世にあってよかった、と感じる。「アリスに狩りに」の韻律もいい。


しんじゃえーる、 わたし、いがいを、 よぶ の、なら ? きみに、あげるの、しんじゃえーるを*3
/藤井茉理「黄色憐歌」


 最初は「死んじゃえる」に「ジンジャーエール」を掛けた単なる言葉遊びだと思ったが、結句に至るとそれは「あげる」ことが可能なものとなっており、それはただの「死んじゃえる」ではありえない。「ジンジャーエール」の物質的性質と「死んじゃえる」の双方を持つ謎のものがそこに存在している。「しんじゃえーる」、もらいたくない。
 

*1:Video Assistant Referee、いわゆるビデオ判定

*2:なぜこの記事が医療ニュースのサイトに掲載されているのか謎

*3:改行の関係上、誌面からは「あげるの、」後の字空けの有無が判別できない