ショッピングモールはきっと箱舟、とささやきあって屋上へ出る
この歌の構成要素の重要度に順位をつけるとしたら、①ショッピングモール=箱舟という発想、②「屋上へ出る」という着地点だと思うけれど、③にあたる「ささやきあって」というディテールこそがイメージを喚起し、読者に歌を体感させるわけで、そこを書けるかどうかが作者としての力量の分かれ目なのだろう。
ケータイを畳み両手で胸に当てあこがれこがれこわがるなかれ
「だるいせつないこわいさみしい」*1の順番をしばしば忘れる私でも、「あこがれこがれこわがるなかれ」は初読から忘れたことがない(「こわがるなかれ」は一纏めだしアンフェアな比較だけれど)。読んでいると胸がどきどきするような、甘酸っぱい気持ちになる。
子どものころのことを訊かれてある雨の夜の搭乗ゲートを告げる
おみくじをすんと結びぬ 妹の祈るいい画もとれたことだし
お姉ちゃんみたいなひとがまたひとり人妻になる 縁石をゆく
「お姉ちゃん」ではない人を「お姉ちゃんみたいなひと」と捉えることは、自分との間に何らかの関係性が結ばれることへの欲望を示唆しているけれど、それが具体的にどういったものかはそこまで明確にはならない。それは社会において、男性が*2「お姉ちゃんみたいなひと」と他者(たいていは女性だろう)を思うことは肯定されがたく、欲望が隠匿されてきたからだろう。一方で「人妻」という捉え方は社会に溢れていて、そう名指すことがほとんど特定の欲望の言明と不可分だ。
相手を「人妻」として捉えることは、「お姉ちゃんみたいなひと」に/との間に自分が望んでいたものを固定しかねない。それは読者の読解上も、そしておそらくは主体自身の内面においても。けれども、特定の感情に回収しがたい――危うさの喩のような行為とも取れるし、それこそ「お姉ちゃんみたいなひと」と捉えることが社会に承認されやすい幼少期に軽やかにやっていたことでもある――「縁石をゆく」で歌が終わることにより、欲望はぎりぎりのところで固定されずに済み、そのことに正直なところ安堵し、安堵していることを自覚してどれほど自分がこの歌に捕らえられていたかに気づいた。
ぼくの夢は夢を言いよどまないこと窓いっぱいにマニキュアを塗る
でもこれは記録だ。ぼくのかじかんだ手が書く一度きりの夕焼け
minasokosunadokei.hatenablog.com
志村貴子『放浪息子』がエピグラフに引かれた連作から。この連作「For You」*3は短歌による二次創作として最良のものと信じているけれど、なかでも最初と最後の歌にあたる、それぞれ冒頭で最終巻にある言葉を引用しているこの二首は、そこからの展開のしかたが本当にすばらしい。
美樹さやかに僕はなりたい鱗めく銀の自転車曳くゆうまぐれ
今は忘れられたTwitterアカウントでの青年時代には私は美樹さやかアイコンだった。私は今でも美樹さやかになりたいだろうか?
だが会いにゆかねば遠く尖塔がふかぶかと藍にしずむ夕暮れ
倒置でもないのにいきなり接続詞からはじめ、前提条件を隠匿することで主体の思いをクローズアップする、という現代短歌にありがちな技法*4を用いた歌は、往々にして切迫感や息の苦しい感じを与えるけれど、この歌にはどこか余裕や息の長さが感じられる。いや、「だが」と言っているからには何らかの懸念や葛藤はあったのだろうけれど、それはもう済んだことで、とっくに覚悟は決まっている、というか。「ふかぶかと藍に」の八音が効いていると思う。
終バスを映画で逃す 雨音をやがて失う世界を歩む
バスを逃して歩いて帰っている、という出来事と歌を読んで受ける印象があまりにかけ離れている。世界からはいずれあらゆるものが(世界そのものさえも)失われる、という立場に立てば、「()をやがて失う世界を歩む」にはいま世界に存在する任意のものを入れればよく、そういう歌だと思っているけれど、そこで「雨音」を選ぶのは格好良すぎない?