良い旅を

松田直樹のこと

 僕がマリノスを応援しはじめたのは2010年のワールドカップのあとで、だから僕はその選手が活躍しているところをあまり見たことがない。
 サポーターからは「マツ」と呼ばれている彼が日本代表としてワールドカップにも出たことのある選手で、生え抜きの「ミスターマリノス」であるということは知っていた。スタメン発表で名前がコールされたときのスタジアムの盛り上がりも体感した。けれども松田が出たワールドカップは、中村俊輔が落選した代表発表会見くらいしか印象にない8年前のもので(当時は野球少年で、会見を見たのもたまたま友達の家にいたからに過ぎない)、2010年の松田の見せるパフォーマンスは彼が浴びている大歓声ほど特別なものには見えなかった。
 そういうわけでそのシーズンの終了前に彼が契約非更新(要はクビだ)になるというニュースがスポーツ新聞に踊っても僕にはさしたる感慨もなくて、多くのサポーターがインターネットで怒っているのも、クラブハウスの前に座り込んで撤回を求めていることにも全然ピンとこなかった。別に嫌いなわけじゃない、新米ファンであっても知っていた彼にまつわるエピソードには、人間的な魅力を感じるものが多かった。でもプロスポーツなのだから戦力にならないと判断された選手と契約しないのはしょうがないことじゃないか。ちょっと反発した。
 シーズンの、そして松田にとってマリノスでの最後の試合はテレビで観た。試合後の監督や社長のスピーチは、大ブーイングと松田のチャントでかき消されていた。ナーオーキ、ナーオーキ、ナーオーキ、直樹オレ! なんだか居たたまれない気分になってテレビを消したので、彼のマリノスでの最後の挨拶は観ていない。


 翌年の8月、日課どおりインターネットでマリノス関連の情報を収集していると、松田が移籍したチームの練習中に倒れたというニュースが目に飛び込んできた。サポーターはみんな祈って、そのことをSNS掲示板に書き込んでいて、僕も祈って、でも書きこむことはできなくて代わりに動画サイトを彼の名前で検索した。ディフェンダーというポジション柄か、プレーしている映像はあまり見つからなかったけれど。例の最後の挨拶もそのとき観た。モニターの中の観客は怒っていたり泣いていたりしていて、今はこのひとたちがみんな泣きながら祈っているのだろうかと考えた。
 しかしいまさらいくら映像を観ても過去に遡って松田と時間を共有することはできないのだ。僕は部外者だった。
 8月4日、桜木町の中央図書館から歩いて帰る途中、少し遠回りしてマリノスタウンの近くを歩いていると、突然大粒の雨が降ってきた。空は晴れているのに。インターネットを見ると「涙雨」という語がいくつも書き込まれていて、彼が亡くなったことと、知らなかった言葉を知った。



 2015年、大学でもぐっていた創作系のゼミで、スポーツにまつわる文章という課題で提出したものに加筆修正した。私以外にサッカーに関心がありそうな参加者はおらず*1、討議はまるで盛り上がらなかったのだけれど、飯田出身だという後輩が、この選手の話をテレビで観た記憶がある、と言っていた。その人は松本山雅のこともうっすらとしか認識していなさそうだったけれど、むしろそういう人の頭の片隅に松田が残っていることに、なんだか感慨というか、救われたような気持ちが湧き上がってきて、少し泣きそうになったことを覚えている。

*1:もぐりを含め2-30人ほどのゼミ生(もぐりを含む)のうち、プロ野球についても日常的に観ていそうなのは私以外に1人だけだったので、エンターテイメントとしてのスポーツ(観戦)とは親和性の低い場だったのだと思う。他に学内スポーツ紙の記者はいたけれど