良い旅を

自分のルーツの話

 前の記事のような話をするとじゃあお前のルーツはどこなんだ、お前はなに歌人なんだ、名乗れ、と言われるかもしれないけれど、これがなかなか答えづらい。
 小学生のときはそれなりに読書家だったけれど、中高の在学中はろくに本を読んでいない。映画や演劇を自発的に観たことはたぶん一度もないし、美術館に行くこともなかった。アニメはオープニングしか観ず、ゲームやポップ・ミュージックの摂取量も同世代の平均を大きく下回るだろう。吹奏楽部に入っていたとはいえ、その練習態度はだいぶ面の皮の厚い私でも今思うと少々赤面しそうになるほど不真面目だったし、それが血肉になっている気はまったくしない。そもそも私にいわゆる自我のようなものが芽生えたのは高校をやめた後のことだから、それより前の経験が反映されている可能性は低そうだ。

 結局のところ、私はいかにも無用な混乱を招きそうであっても、この肩書を名乗らないといけないのかもしれない。すなわち、「インターネット歌人」だ。今使われている「ネット歌人」という語の暗黙的定義には当てはまらないだろうし、繰り返しになるが混乱を招くだけだろうから敢えて主張することはないけれど。それなりに公的なプロフィールを書くときは、大学短歌会で作歌をはじめる、と書いているし、実際まともな作品を作るようになったのはそれ以降だから間違いではない。
 とはいえ私が短歌に興味を持ったきっかけはたまたまTwitterでフォローしていた人たち(奇しくも、と言うべきか、現在では稀風社の同人としていわゆる伝統的な歌壇にも接続している@suzuchiu@kmhr_tだ)がツイートしていた短歌なのだから、私は自分のことをやっぱり「インターネット歌人」だと思っている。
 初めて買った歌集は遠野サンフェイスというTwittererの『ビューティフルカーム』だった。リンクを張ったのは電子版だが、物理版は表に短歌、裏に写真が(あるいは逆かもしれないが)が印刷された紙たちを単語カードのようにリングで留めた洒落たもので、まだ蒲田でやっていた文学フリマで私はそれを手に入れた。

bunfree.net


 当時のカタログを確認すると、伝統的歌壇と接続している、その後私が関わることになるような人たち、先輩たちも出店していたことが分かる。しかしその比率はまだ低く、短歌島自体が今と比べるとかなり小規模だ。そのあたりのことはまた記事にして考えてみたい。

 

 だいぶ話が逸れたけれど、私が自身のことを「インターネット歌人」だと思っているのは、単にそこで短歌に興味を持ったからというだけでなく、他の歌人にとっての第一表現形式にあたるものが、私にとってはインターネットという、そこにいる人たちが送る人生や生産する文字情報というコンテンツだったように思うからだ。正確にはインターネットのうち、TwitterというSNSの片隅の中退者や不登校や、ナーバスな高校生や浪人生や、うだうだしている大学生や院生や若干の社会人(便宜上の表現)たち、彼女ら彼らのしていたツイートが、おそらく私の短歌のルーツにある。
 今となっては多くはハンドルネームも覚えていない、生きているのか死んでいるのかも分からない、何人かは死んだということをツイートで当時知らされたひとびととの馴れあい(大抵はTwitter、たまにSkype、オフ会)が唯一の対人コミュニケーションだった時期は、社会的に見れば私の人生で最低の時期だろうし、医学的に見ても最悪の精神状態だったことは間違いない。けれども語弊を恐れずに言えば、私はそのどうしようもなさを楽しんでいたし、それまでの人生のもろもろの経験よりもはるかに意味のあることに感じていた(自我も手に入れたし)。そしてそこから去ることを残念に感じたし、去ったことそのものと残念に感じたことの双方に傲慢な罪悪感を今でも覚えている。他はともかく、私のような中退者や不登校のうち、社会的にそれなりに認められる場(要は偏差値の高い大学だ)に移行することで去れたものはそれほど多くなかったかもしれないし、私がそうできたのは努力の成果などではなく、嫌になってやめたはずの学校で叩きこまれていた受験テクニックのおかげにすぎない。
 飽き性な私がなんだかんだ長い間短歌をやっているのは、他人から見れば何も得ることがなかったと言われそうなあの時期に、得たものがある、ということを主張し続けたい面もあるのかもしれない。作品への実際的な影響は、大学以降に短歌の世界やそれ以外の世界で知り合った人たちからのものがほとんどで、その交流はまっとうに楽しかったけれど、それだけで私の短歌を塗りつぶしたくない。わざわざこんな文章を書いてしまうくらいには。まあそもそも私のとっての短歌は自己表現というわけではあまりないけれど。

 

 偶然に入学した大学の短歌会に入って、短歌を作っている生身の人間と初めて会ったとき、今どき短歌なんてやっている若者は全員Twitterがきっかけだろうと思っていた。実際はぜんぜんそんなことはなく、寺山修司俵万智穂村弘枡野浩一の本や、教科書がきっかけだという人が多かった。私は『ラインマーカーズ』が通っていた精神科の待合室にあったから読んだだけで、ISBNコードがついた短歌の本は他に一切知らなかった。教科書なんて中学以降は開いたこともないから、誰の短歌が乗っていたかという質問にも答えようがない。
 入学後一年近くが経ちだいぶ社会にも慣れたころ、はじめての機関誌に一首評を書くことになり、私は『ビューティフルカーム』のいちばん好きだった歌を選んだ。ネット公開されているそれを今読むといかにもロマンチック・ラブ脳という感じで恥ずかしいが、とにかく人生ではじめて発表することを意識して書いた散文だった。
 短歌会では一首評/評論で扱った作品の著者が存命である場合はその評者が挨拶状を書いた上で謹呈し、送付先が分からない場合は自ら連絡を取って確認することになっていた。遠野サンフェイス氏はもちろん短歌年鑑の住所録には載っていないし、結婚した(もちろんツイートによれば、だ)とかでそれ以降ほとんどツイートしなくなっていた。当時はDMをフォロワー外から受け取るなんて設定もなかった。住所を聞くのも、謹呈文化も、勝手に書いたものを読んでくれとでも言わんばかりの行動も、いかにもこじらせインターネット界の文化が分からない健康な大学生みたいで嫌だったから、結局連絡を取ることはなく、たぶんあの年は私だけが謹呈をしていない。