良い旅を

自信

 明かりも人も見えない夜の闇を歩いていけるのは、死者や幽霊や妖怪がいないと思っているからじゃない。その証拠に、今だってまったく怖くないわけじゃないし。それでも耐えられるのは、かれらがいたとしても私に危害を加えることはできない、お互いが相手を知覚できるなら、むしろかれらのほうが私に従うはずだ、そうであるべきだ、という自信があるからだ。この自信、私にあるべき力が実際に通用するものなのか確かめる機会にはいまだ恵まれていないけれど、考えてみればいまのアルバイト、死者たちと同じ建物で夜を明かすことでお金をもらう仕事を行う上ではすでに大いなる力を発揮しているともいえて、この自信をもたらす思想の原点はトールキン十二国記かそれとも他のファンタジーか、あるいはあまり読んだ記憶はないけれどホラーの類だろうか、ともかく本たちと作者たちに感謝する。いやどの作者もこんな怪しい選民思想の土台にされるなんで想像もしていなかっただろうけれど。


 けれど私にも暗闇で姿の見えないものから必死に逃げた経験がないわけではなくて、しかもその暗闇は今よりずっと浅い、まだ薄明かりが残る釧路湿原だった。14時半ごろ最寄駅に降り立った私にとっての帰りの列車(電車ではない)は4時間待ちで、道東の秋は16時過ぎともなればもう日が暮れてしまう。駅の近くの展望台から景色をひととおり楽しんだあとで、どうせなら満天の星空でも観てやるか、一緒に降りてここまできた団体客はこのあたりにとどまるだろうから反対側で、と威勢良く出発して、たぶん2、3km歩いたさきの沼のまわりをぶらぶらしていたところまでは良かったが、あたりが暗くなってくると道路わき、沼と反対側の木々の奥からの物音がやけに気になってくる。もしかしてヒグマじゃないか。熊避けになるようなものなんて持っていないし、ヒグマが私に従ってくれる気もあんまりしない。早足で来た道を引き返す。沼をはなれると両側が林になる。左右両耳に届くすべての物音がヒグマに聴こえる。もう限界だ。走り出す。追いかけてくる無数の足音のほとんどは自分のそれが木々に反響したものだと分かるけれど、そのなかの一つもヒグマのものでないとどうして言える? 息が切れて走るのをやめると足音も消えた。今回は。次回もそうなるとどうして言える?
 アスファルトの道と鉄の道が接したところで、本来人間が走るべきではないほうに乗り入れる。バラストの舗装は何ヶ月も前から穴の空いている靴で走るには痛すぎるけれど、姿の見えない怪物が潜む魔界が左右にあるよりはマシだし、列車はヒグマよりもはるかに勝ち目はないけれど、なにせあと2時間は私の眼前には現れない。


 そんなことを思い出しながら戻ってきた駅は釧路湿原駅ではなく横川駅で、列車(電車だ)を待つのもたった1時間でいい。たぶん15分ぶりくらいに見た明かりは直近と同じ駅のもので、改札の脇に貼ってある、さっきは見えなかったポスターに、「野生動物の出没に注意してください」の文字を見つける。両側を木々にはさまれたさっきの道で、私の足音以外に聞こえた音はなんだったかな。死者や幽霊や妖怪だと思いこもうとしていたんだけど。ヒグマということはないと思うけれど、本州の動物たちは私に従ってくれるだろうか。