良い旅を

一ノ瀬志希、宮本フレデリカ『クレイジークレイジー』、あるいはMCTCの歌詞について

 

 

utaten.com

 作詞:BNSI(MCTC)
 作曲・編曲:BNSI(Taku Inoue)

 サウンドが最高なのは自明なので歌詞の話をします。
「ラストのI love you」を最初に言うというのは明らかに「ありきたりなロマンス」の骨法を破っているし、その後「壊れそうなキスしたまま映画が終わる」ときたら、そんな映画はショートフィルムとしてすら成立することは困難だろう。フィクションの公式というのが要するにひとびとの了解で成り立っている以上、そこは社会的に承認される欲望の範囲でもあって、その極限を踏み越えて愛の告白をを最初にしてしまう存在は、「クレイジー」という指弾を免れることはできない。「きみと空飛びたい」にしても。
 だからこの曲を激しい感情によるものにしろ、あるいは生来のものにしろ、凡人の道理を外れてしまった人間の悲哀ならびにそのうつくしさ、と捉えることは簡単だし、作中世界においては、歌唱者二人のイメージからしても、そういった方向性で説得力を発揮していそうな気はする。*1けれどもメタな立場にいる人間としては、その手の見方には抵抗したいとも思っていて、この曲からそれなりに多くの人が引き出すだろう「百合」というモチーフ(まあ「女性」が二人で恋愛の歌を歌っているからすなわち「女性同性愛」だ、という順接も相当に危ういと思うが、我ながら)がまさにそうなりがちであるように、タブーであるから美しい=承認されるためにはタブーであり続けることを要求される、という構図は端的に言って残酷だし、非道だ。たとえギフテッドだろうとサイコパスだろうと、どんな欲望を抱いていようと、それのみをもって断罪されるべきではない。

走るヒーロー

優しくて勇敢で素敵なんだ

きみの方がね

を私は「素敵なんだ」のみが「きみの方がね」にかかっていると読んでいるけれど、いかにも社会的に「素敵」とされる理由がたくさんあり、そもそも自明に素敵な存在として承認されている「ヒーロー」よりも、無冠の「君」のほうが素敵なことだってありうるし、そこには何の理由もなくたってよいのだ、この曲での展開の唐突さのように(しかしここの急旋回、ドライブ感は何度聴いてもすごい)。


 MCTC氏の歌詞は「旅に出がち」「何かを探しがち」「今夜がち」と作曲家兼専属マネージャーのTaku Inoue氏も指摘している。*2他の頻出語の「宇宙」「星」と合わせ、「ここではない場所への憧れ」というモチーフがこのあたりの語に象徴されているのだと思う。
 とはいえワンパターンかというとそんなことはない。定番「ユー・アー・リスニング・トゥ・レディオ・ハッピー」(『Radio Happy』)や「世界はもうぼくらのもの」な『そしてぼくらは旅に出る』、極めつきは「どんな永遠も全部過去にして君を連れ出してあげる」(『Light Year Song』)とまで言い放つユーフォリックな歌群もあれば、「君がもしその手を離したら/すぐにいなくなるから /手錠の鍵を探して 捕まえて」「流れ星を捕まえて この足に縛ってよ」と、まるでお互いを自分だけのものにするためだけに宇宙を求めるかのような『Hotel Moonside』、「明日にならないパーティー ある気がしてた」けれど「もうタイムアップ 朝だから」挫折する『99 nights』(美希のソロが最高)、そして「ここ」にいたまま「ここ」の住人ではなくなってしまう『クレイジークレイジー』。
 ときに曲全体でのストーリーの構築に寄りながら、そういった場合でも細部のフレーズにもキャッチ―さやかがやきがちゃんとあって、決して全体に奉仕するものにとどまっていないところもよい。『Honey Heartbeat』をカーセックスの歌だと思おうとそれが叶わず失恋したと受け止めようと、「今何時? んー0時かあ/シンデレラはベッドで寝る時間/だけど3つ数えてヒミツ作ろう」の怪しさや「シート倒したらねえ、you see?/Gimme君のAtoZ」の格好良さに変わりはないし。*3
 今更言うまでもないけれど韻もキレキレだし。個人的には「サーフボードの上 真夏の夜の夢」「眠るハイビスカス 愛に気付かず/君の手まで果てしないディスタンス」(Pon de Beach)が最高だと思います。

*1:あくまで歌唱者というバイアスがかかったときこの曲がどう受け止められるかの話であり、歌唱者=志希・フレデリカがどういう存在だと思われているか、どういう存在か、ではない

*2:https://twitter.com/ino_tac/status/1057641560559431680
https://twitter.com/ino_tac/status/1057641705158000640

*3:しかしおそらくMCTC初登場でTaku Inoueが関わっていないこの曲の歌詞が一番はっちゃけている気がする。またこういうの(性的なものという意味ではない)書いて欲しい

木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』

 

 

 面白かった。書籍のタイトルに掲げられているのは「新反動主義」だけれど、最終章のタイトルである「加速主義」のほうが読みどころだし、語としても意味を想像しやすくキャッチ―だと思う。(新反動主義者/右派加速主義者が敵視するような)「リベラル民主主義的な〈カテドラル〉のイデオロギー」の信奉者に対しては「反動」という単語が挑発的、刺激的だから、という判断からだろうか。そうだとしてもその層がどれほどこの手の本を買うかは疑わしい気がするけれど。

 

 1章・2章の新反動主義のあたりはどちらかというと現代の政治をどうにかしよう、あるいはどうにかするよりそこから脱出しようという話で、しかしその割に実現性が乏しく感じられて(トランプだって新反動主義的政策はとってないじゃん)、勉強にはなるけれどそんなに面白くはない。一部アメリカ人は本当に無条件に自由が好きだなあ、という雑な印象。大きな政府福祉国家が自由を制限するから駄目と言われても、私は超人になってまでサヴァイブしたくないし、国家をうまいこと利用してだらだらやっていきたいと思ってしまう。新反動主義者にはそういうやつを生むから福祉国家は駄目なんだ、と言われそうだが。
 3章は加速主義に至るまでのニック・ランドとその周辺の紹介。ランドやその周りの人間がめちゃくちゃなことをやりまくっているのが単純に面白い。

睡眠を取らず、使い古したアムストラッド社製のパソコンのモニターを一日中凝視しながら、奇怪な数字の配列やシンボルをを延々といじくりまわしていた。この時期のランドの実験にはたとえば、QWERTYキーボードとカバラ数秘学を組み合わせるというものがあった。人間的な理性を超越した非-意味に基づくアンチ・システムだけが〈未知〉=〈外部〉への扉であるという確信。

とか、よく即刻大学クビにならなかったな。
 あまり本筋というわけではないけれど、ランドが初期に戦闘的フェミニズム(筆者も指摘しているように具体性を欠いているが、「我々は自身の只中に新たなアマゾーンを育てなければならない」という文から大まかなニュアンスは推測できそう)に可能性を見出していた点や、サイバー・フェミニズムと接続していた点は興味深い。とはいえ後にその主題が後景に退いていったという記述を見ると、結局(乱暴に言えば)「現状を破壊してくれる道具」として期待していただけでは? という気もしてしまう。
  章末で少しだけ言及されている中華未来主義も興味深い。サイバーパンクを現実に投影したうえで、それを本気でユートピア(厳密にはそこへの回路だろうが)として見る態度。これは日本からは出てこないだろうなあ、と思う。単純な嫌中感情の問題だけではなく、そもそも日本もまた「〈カテドラル〉のイデオロギー」が欧米ほど根付いていないという意味で。

 

 4章、問題の加速主語の話は、個人的には未来派にもロシア宇宙主義にも多少馴染みがあることもあってか*1、また極限状況において決定的な変革が起こる(し、そうでなければ起こりえない)という発想もマルクスにしろ外山恒一にしろ当然のものだし、それほど突飛にもダークな思想とも感じられなかった。とはいえシンギュラリティ状況における変革のビジョンは、負荷に耐えられなくなった人々のエネルギーが起こす/後押しするというものではないから、安易に『共産党宣言』を援用するのはどうなのかと思う。それよりは未来派における戦争に近いのだろうけど、第一次世界大戦未来派の期待したような変革を果たして起こしたのか、あるいはシンギュラリティが到来するとして、それは世界大戦/総力戦ほどの衝迫力を人々に大して持つのか*2、などと考えると怪しげ。
 いちばん万人向け? だと思ったのは資本主義リアリズムの話。「哲学者スラヴォイ・ジジェクのものとされる『資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい』というフレーズ」は私の乏しいジジェク知識でもいかにも言いそうだと思うが、まあこの書き方からして出典が怪しいのだろう。ともかく言われていること自体は非常に納得できる。「大きな物語の終焉」などというのはもはや手垢がつきすぎた表現だけど、少なくとも西側諸国において崩壊したのは「資本主義という現実に対抗するビジョンとしての大きな物語」であって、資本主義(ついでに民主主義も)という物語はまるで終焉なんてしていない。「資本主義が人々に幸福をもたらす」ということがもはや信じられなくなったとしても、それは資本主義という物語が「絶望の物語」に変わっただけで、崩壊したわけではない。共産主義ユートピアを提示するものとして受け止められていたから、人々に幸福をもたらすと信じられなくなった時点で崩壊せざるを得ない。しかし資本主義はむしろそのユートピアに対してシニカルな、「現実的」な立場に支えられている*3のだから、たとえそれが幸福をもたらすことがないとしても「現実は難しい」「文句があるなら代案を出せ」で片付けられてしまう。「資本主義の問題は、それが機能不全でありながらも現実に機能してしまう点にこそある」というのは、まさに、といったところ。資本主義リアリズムについては本書で言及されているマーク・フィッシャーの書籍が邦訳されている(上の怪しいジジェクの引用もフィッシャーのものだという)のでいずれ読んでみたい。

 

資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

  • 作者: マークフィッシャー,セバスチャンブロイ,河南瑠莉
  • 出版社/メーカー: 堀之内出版
  • 発売日: 2018/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログ (2件) を見る
 

 
 加速主義という新たなユートピア思想が「大学院生の病」であるという指摘は最近まで院生の端くれだったものとして正直笑ってしまうが、「加速主義は鬱病に効く」と言われると切実にも感じる。同じ加速主義でも前者は右派、後者は左派についての言葉だけれど、まあ大学院生がメンタルをやられやすい立場であるのはたぶん事実だ。
 個人的にはトランスヒューマン/シンギュラリティよりは宇宙進出に希望を見出したい。マインド・アップローディングしたところでそのコンピュータを地球にしか置けないのなら地球が吹っ飛んだらおしまいじゃん? どうせトランスヒューマンするなら宇宙(移住先)に適応しようよ。「広がって、地に満ちよ」(Key『rewrite』)。

 

 終盤のヴェイパーウェイヴをはじめとする音楽の話はこれだけでもう一章欲しいくらい。ちょうど最近訳あってヴェイパーウェイヴをちょっと聴いていたのだけれど、参考にしたものの一つが同じ筆者のこの記事だった。本書の記述ともかなり共通している。それがそのまま右派加速主義者/オルタナ右翼と重なるかはともかく(ヴェイパーウェイヴの主流はランドよりもむしろ、上述のマーク・フィッシャーの左派加速主義のビジョンに重なると筆者は指摘している)、いわゆる「レトロな」、過去においてありふれていた音楽、文化に惹かれる欲望の裏に、未来への絶望があるというのは綺麗すぎるほどに筋が通った理屈だ。日本のシティポップが海外で流行っているという「日本スゴイ」的文脈に回収されている現象も、以下のような理由があると考えるとかなり皮肉だ。

もはや、アメリカの若い世代は自分たちの過去の記憶に純粋なノスタルジアを感じることができなくなっている。その代わり、日本という他者――自分たちが経験したものではない時代と場所の記憶に、ある種の新鮮で穢れていないノスタルジアを求めているのだという。シティポップの全盛期である80年代といえば、日本はバブル景気に湧き、アメリカには安価な日本製品が大量に流入してくるなど、日本のプレゼンスが否応にも高まっていた時期に当たる。

スゴイのは過去の、それこそアメリカすら圧迫するレベルで資本主義が人々に幸福をもたらすと信じることができていた日本であり、今の日本ではない。「中華未来主義」だって「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が取って代わられたものとも言えるし。
 私はいわゆるミレニアル世代に属していて、シティポップ(的なもの)はわりと好きだけれど、その時代に郷愁を抱いているつもりはない。男女雇用機会均等法もなかった時代が今よりマシとは思えないし。とはいえ未来に希望を抱いているかと問われれば答えに窮する(いや答え自体はほとんど決まっているけれど、だからこそ窮するのだ)し、本書のラストで引用されているティールの発言には思わずうなずいてしまう。

「たとえトランプに懐古趣味や過去へ戻ろうとする側面があったとしても多くの人々は未来的だった過去へ戻りたいと思っているのではないでしょうか。『宇宙家族ジェットソン』、『スター・トレック』、それらは確かに古い。だけどそこには未来がありました」。

スター・トレック』はティプトリー・Jr.「ビームしておくれ、ふるさとへ」でしか知らないけれど。

 

 

 私がどうしてもアンチ星海社なことを差し引いても*4、デザインは正直ダサいと思う。本当は参考文献以降のような黒地に白抜き文字に全篇したかったのを妥協したのかなと邪推。

*1:カントやベルクソンに??? となっていたのに、マリネッティやフョードロフやソロヴィヨフで「あ!これ進研ゼミでやったやつだ!」となるのも我ながらどうかと思うが

*2:衝撃を与える人間の数、あるいは全人類のうちの割合は当然WWⅠをはるかに上回るだろうけれど、反面WWⅠほど突然起きたものとしては感じられないのではないか

*3:もちろん理念としての自由を信奉している人もいるだろうけど、「共産主義は結局みんなが貧しくなるだけ」という見方から消極的に資本主義を支えている力はとても強いと思う

*4:牧村朝子『百合のリアル』や原田実『江戸しぐさの正体』のような良書も出しているとはいえ、倫理的に許しがたい本や看板に偽りありの本や編集やる気あんのかという本の印象が悪すぎる。大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた』とか、期待してたのに……。

自分のルーツの話

 前の記事のような話をするとじゃあお前のルーツはどこなんだ、お前はなに歌人なんだ、名乗れ、と言われるかもしれないけれど、これがなかなか答えづらい。
 小学生のときはそれなりに読書家だったけれど、中高の在学中はろくに本を読んでいない。映画や演劇を自発的に観たことはたぶん一度もないし、美術館に行くこともなかった。アニメはオープニングしか観ず、ゲームやポップ・ミュージックの摂取量も同世代の平均を大きく下回るだろう。吹奏楽部に入っていたとはいえ、その練習態度はだいぶ面の皮の厚い私でも今思うと少々赤面しそうになるほど不真面目だったし、それが血肉になっている気はまったくしない。そもそも私にいわゆる自我のようなものが芽生えたのは高校をやめた後のことだから、それより前の経験が反映されている可能性は低そうだ。

 結局のところ、私はいかにも無用な混乱を招きそうであっても、この肩書を名乗らないといけないのかもしれない。すなわち、「インターネット歌人」だ。今使われている「ネット歌人」という語の暗黙的定義には当てはまらないだろうし、繰り返しになるが混乱を招くだけだろうから敢えて主張することはないけれど。それなりに公的なプロフィールを書くときは、大学短歌会で作歌をはじめる、と書いているし、実際まともな作品を作るようになったのはそれ以降だから間違いではない。
 とはいえ私が短歌に興味を持ったきっかけはたまたまTwitterでフォローしていた人たち(奇しくも、と言うべきか、現在では稀風社の同人としていわゆる伝統的な歌壇にも接続している@suzuchiu@kmhr_tだ)がツイートしていた短歌なのだから、私は自分のことをやっぱり「インターネット歌人」だと思っている。
 初めて買った歌集は遠野サンフェイスというTwittererの『ビューティフルカーム』だった。リンクを張ったのは電子版だが、物理版は表に短歌、裏に写真が(あるいは逆かもしれないが)が印刷された紙たちを単語カードのようにリングで留めた洒落たもので、まだ蒲田でやっていた文学フリマで私はそれを手に入れた。

bunfree.net


 当時のカタログを確認すると、伝統的歌壇と接続している、その後私が関わることになるような人たち、先輩たちも出店していたことが分かる。しかしその比率はまだ低く、短歌島自体が今と比べるとかなり小規模だ。そのあたりのことはまた記事にして考えてみたい。

 

 だいぶ話が逸れたけれど、私が自身のことを「インターネット歌人」だと思っているのは、単にそこで短歌に興味を持ったからというだけでなく、他の歌人にとっての第一表現形式にあたるものが、私にとってはインターネットという、そこにいる人たちが送る人生や生産する文字情報というコンテンツだったように思うからだ。正確にはインターネットのうち、TwitterというSNSの片隅の中退者や不登校や、ナーバスな高校生や浪人生や、うだうだしている大学生や院生や若干の社会人(便宜上の表現)たち、彼女ら彼らのしていたツイートが、おそらく私の短歌のルーツにある。
 今となっては多くはハンドルネームも覚えていない、生きているのか死んでいるのかも分からない、何人かは死んだということをツイートで当時知らされたひとびととの馴れあい(大抵はTwitter、たまにSkype、オフ会)が唯一の対人コミュニケーションだった時期は、社会的に見れば私の人生で最低の時期だろうし、医学的に見ても最悪の精神状態だったことは間違いない。けれども語弊を恐れずに言えば、私はそのどうしようもなさを楽しんでいたし、それまでの人生のもろもろの経験よりもはるかに意味のあることに感じていた(自我も手に入れたし)。そしてそこから去ることを残念に感じたし、去ったことそのものと残念に感じたことの双方に傲慢な罪悪感を今でも覚えている。他はともかく、私のような中退者や不登校のうち、社会的にそれなりに認められる場(要は偏差値の高い大学だ)に移行することで去れたものはそれほど多くなかったかもしれないし、私がそうできたのは努力の成果などではなく、嫌になってやめたはずの学校で叩きこまれていた受験テクニックのおかげにすぎない。
 飽き性な私がなんだかんだ長い間短歌をやっているのは、他人から見れば何も得ることがなかったと言われそうなあの時期に、得たものがある、ということを主張し続けたい面もあるのかもしれない。作品への実際的な影響は、大学以降に短歌の世界やそれ以外の世界で知り合った人たちからのものがほとんどで、その交流はまっとうに楽しかったけれど、それだけで私の短歌を塗りつぶしたくない。わざわざこんな文章を書いてしまうくらいには。まあそもそも私のとっての短歌は自己表現というわけではあまりないけれど。

 

 偶然に入学した大学の短歌会に入って、短歌を作っている生身の人間と初めて会ったとき、今どき短歌なんてやっている若者は全員Twitterがきっかけだろうと思っていた。実際はぜんぜんそんなことはなく、寺山修司俵万智穂村弘枡野浩一の本や、教科書がきっかけだという人が多かった。私は『ラインマーカーズ』が通っていた精神科の待合室にあったから読んだだけで、ISBNコードがついた短歌の本は他に一切知らなかった。教科書なんて中学以降は開いたこともないから、誰の短歌が乗っていたかという質問にも答えようがない。
 入学後一年近くが経ちだいぶ社会にも慣れたころ、はじめての機関誌に一首評を書くことになり、私は『ビューティフルカーム』のいちばん好きだった歌を選んだ。ネット公開されているそれを今読むといかにもロマンチック・ラブ脳という感じで恥ずかしいが、とにかく人生ではじめて発表することを意識して書いた散文だった。
 短歌会では一首評/評論で扱った作品の著者が存命である場合はその評者が挨拶状を書いた上で謹呈し、送付先が分からない場合は自ら連絡を取って確認することになっていた。遠野サンフェイス氏はもちろん短歌年鑑の住所録には載っていないし、結婚した(もちろんツイートによれば、だ)とかでそれ以降ほとんどツイートしなくなっていた。当時はDMをフォロワー外から受け取るなんて設定もなかった。住所を聞くのも、謹呈文化も、勝手に書いたものを読んでくれとでも言わんばかりの行動も、いかにもこじらせインターネット界の文化が分からない健康な大学生みたいで嫌だったから、結局連絡を取ることはなく、たぶんあの年は私だけが謹呈をしていない。

歌人のルーツの話

 現代において短歌という表現形式はかなりマイナーだけれども、それゆえに生じているちょっと面白い特徴は、短歌はそれが「第一表現形式」である作者の比率が極めて低い形式であることではないだろうか。「第一表現形式」というのは「第一言語」という概念を援用した造語だが、狭義の創作でも演奏のような再解釈行為でも、あるいは単にひたすら耽溺していただけであってもいいから、幼少期から特に慣れ親しんできた、というくらいに捉えてほしい。
 たとえば小説や漫画や音楽であれば、幼いころからそれに親しんできた末に自分でも創作するようになった、という人は多いだろう。映画や演劇やアニメとなるとあまり小さいころからというわけにはいかないかもしれないが、いつかはその作者になろうと心に決めている、ということもありそうだ。しかし短歌となると、子どものころからひたすら短歌を読みふけってきてそのまま歌人になった、という例はかなり希ではないか。例外としてありえそうなのが親(あるいは親族)が歌人であるいわゆる二世、三世歌人だけれども、インタビューなどを見ると彼女ら彼らですら必ずしも幼いころから短歌に親しんでいたというわけでもないらしい。
 加えて短歌を作るハードルは他のほとんどの形式に比べて低い。自由詩ほど長く書かなくてもよいし、俳句みたいに季語を覚えなくてもよいし(どちらのジャンルも第一表現形式としている人の数は短歌より多そうだが)。若者の表現行為などというのはたいていは「俺の歌を聴け」的な欲求に裏打ちされているものだとすれば、それを実現するためには俳句より短歌のほうがいろいろと手っ取り早そう、というのもあるかもしれない。
 その結果として短歌の世界は、漫画やアニメや演劇や写真やガラス細工やロックやヒップホップや小説(は大勢力だろうから日本文学/海外文学/ミステリ/SFなどと細分化できるかもしれない)や、とにかくありとあらゆる表現形式にルーツをもつ作者たちの坩堝となっている。あるいはサラダボウルかもしれないが。そして漫画歌人やアニメ歌人や演劇歌人や…(中略)…たちのルーツは、狭義の創作行為をしていたか否かに関わらず、その短歌作品にどこかで反映されているような気がする。

陳浩基『13・67』

 

 

13・67

13・67

 

 

 香港警察の「天眼」と呼ばれる名探偵、クワンを主人公にしたミステリ。香港の動乱に関係して、というわけでは特になく、たまたま少し前から読んでいた。警察官が作中で名探偵と呼ばれているのはやや珍しいのではないか。後述するように、クワンの推理法はいわゆる警察官らしい地道な捜査というよりは、まさに「名探偵」的なもので違和感はないけれど。中国では私立探偵は違法だそうだが、香港の作家による・台湾で最初に刊行されたこの作品には関係あるのだろうか。

 

 個々に完成度の高い短篇を並べて全体で優れた長篇に、というのは言うは易く行うは難しの典型だけれど、この作品ではクワンの強烈なキャラクターによって全体が貫かれることでそれが実現されているように思う。高い推理力は探偵役の前提として、クワンの個性はその凄まじい、と言って良い(日常の態度はそうは見えないものの)正義感だ。
 冒頭で「ルールを守るだけでは、事件など解決できない」と宣言されるとおり、名探偵たる警官は通常の手法では捕まえられない犯人を追い詰めるため、明らかに違法だろうという捜査を連発する。これはフィクションであり、ついでに言えば名探偵の推理は絶対に間違っていないというタイプのもののようだからともかく、リアルに考えると相当に恐ろしい。

 とはいえこの小説は単純に現実にそういうヒーローの出現を望むというよりは、むしろ現実にはいない、いてはいけない存在であるということを前提にしたうえで、それでも望まずにはいられない、という痛切さがかたちになった作品のような気がする。「これまで台湾人作家の作品を読むときによく感じていたことだが、香港人作家である彼もまた、とても実直に、テーマのために小説を書く」という訳者あとがきは、少なくともこの作品にはとてもしっくりくる。訳文も読みやすかったが、訳者は若くして亡くなっているという。悲しい。

 特に好きだった篇は「クワンのいちばん長い日」と「借りた時間に」*1。前者はミステリとして、後者は単純に小説としてという感じ。

 

 クワンの推理は概ね、ごく早い段階で論理的な推理により仮説を立てる→裏付けとなる証拠を探す(場合によっては捏造する)→犯人を名指す・真相が明かされる、というもの。正直超人すぎる。真相が明かされる時点ではたぶん情報はフェアに提示されているのだろうけれど、その段階で解けたとしてもあまりカタルシスはなさそう。

 クワンの推理の傑出したところは「仮説」を立てる構想力にあるので、読者が彼に伍そうとするならば彼が真相に直結する仮説を立てた時点で同様のそれに至っていないといけない。それより後、クワンが仮説のための証拠を集め始めた段階で真相に気づいても、それは「謎が解けた」というよりはせいぜい「クワンのやりたいことが分かった」という印象。そもそも仮説を立てた時点は彼自身が真相を明かすまで分からないし。

 まああまり考えずにクワンの超人っぷりを楽しめば良い気もする。

 

 小説で歴史を勉強した気になる、というのはよろしくないと思うけれど、1967年の反英暴動などはそもそもそれ自体を知らないかったので結果的には良かった。文革や1968年革命に関係するものとして考えてよいのかな(この本のタイトルも『19・68』と間違えそうになる。革命史観なので……)

 昨年あたりから植民地というものについてよく考えているけれど、租借地という一定期間後に返還することが決まっている(借りた側に条約締結時点で本当にその気があったかはともかく)「Borrowed Place」の特質も気になる。香港島九龍半島はイギリスに割譲された領土であったが、ニューテリトリー(新界)は『租借地』であり、一九九七年にその期限が切れる。とはいえ、イギリス政府がそのとき、香港島九龍半島統治権を保持したまま、ニューテリトリーだけ中国に返還することは考えられない」(「借りた時間に」)という記述にある「考えられない」という状況はどのように生まれたのだろう。

 土地勘がないせいが大きいと思うが、地理的な感覚はかなり掴みづらかった。巻頭に地図は付されているが、もう少し詳しいものが欲しかった。せめて主要な道路や航路くらいはあると有難かったのだけれど。

 

以下ネタバレ、というか読んだ人にしか分からない話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最終篇、「クワンは誰か」というのは割と容易に推測できると思うけれど、「そうでない彼」があの人物であることは(他の篇も含めて)どこかに推理の根拠となる記述があったのだろうか。いずれにせよ、最後の数ページはちょっと泣いてしまった。

*1:原題「Borrowed Time」がこう訳されているけれど、「借り物の時間」のほうが良い気もする。twitterで見た意見の受け売りだが。「Borrowed Place」→「借りた場所に」も同様

歴史について

※『早稲田短歌』46号初出評論を元に、一部加筆・修正した

  A

それで女の歌人には、女は女でやっとけみたいなところがあるじゃないですか。一方、正史としての短歌史はこう続いています、となる。やっぱり男の人は基本的にそういう流れのなかに女の人を入れないんですよ。サブで入れたりはするんだけど、あくまでサブ。いま「何言ってるんだ、自分はちがう」と思った男の人は短歌に関しての自分が書いた文章なりツイッターなり心のなかの考えなりのなかで男女の名前の比率なんなりを一回きちんとカウントしてみてよ*1



 瀬戸夏子のこの発言を読んで、痛いところを突かれたと思ったことをまずは正直に告白しておかなくてはいけない。短歌の世界におけるジェンダーについての、瀬戸曰く「ちょっとひどすぎる」現状には私も苛立ちを覚えているのだけれど、自分もまたいかにも「男の人」的な失敗をしてしまっていたようだ。

「正史としての短歌史」から女性が排除されている、ということについて考えるとき、まず私の頭に浮かぶのは前衛短歌のことだ。正確に言えば、前衛短歌ではない・・・・とされる作者たちのことになる。
 葛原妙子・山中智恵子・森岡貞香・中城ふみ子・馬場あき子などといった、戦後に活躍した女性歌人たちは、一人の歌人としてはそれぞれに高い評価を受けているように思える。少なくとも近代短歌における女性歌人のほとんどが、もはや「近代の女性歌人」そのものについて語ろうとする際にしか語られなくなっていることと比べれば、大きな差があると言ってよいだろう。
 しかしそれでも「前衛短歌の三雄」は塚本邦雄岡井隆寺山修司だ(「雄」なのだからしょうがない? いやいや……)。個々の作者や作品に対する評価と、その歴史上における、言うならば存在意義に対する評価は一致していない。
 彼女たちのそれぞれを、なぜ「前衛短歌」に含めるべきではないかについての論は存在するし、そのなかには作家論として納得できるものもある。「前衛短歌」の時代に活躍しながら、なかなかそこに含められない作者は男性にもいる。それでも、前衛短歌のせいぜい第四人者・・・・(であればまだましなほうだ)として葛原の名がいかにも「女流の例」といったように挙げられ、それ以外は当然のように無視されるとき、阿木津英の言うように、女性歌人たちが「突然変異の大輪としてひとりやふたりなら特別席を用意せぬでもないが、かわりに、女性は自分が何をつくっているのか自覚がない、方法意識がないなどという理由をもって棚上げされ、一方特別席に坐りそこねた多くの女性歌人たちは、個々の歌人としてではなく、(女性歌人)として括られ*2」ているのだ、と思わずにはいられない。
 ここでいう方法意識とは新しいパラダイムを作りだそうとする意識であり、歴史、具体的には先行する作品や歌論に対する関心を前提とするものだ。方法意識を持ち、歴史を進展させるのはあくまで男性であるという思い込みが、女性歌人を同時代の男性歌人のバリエーションという扱いにとどめている。「女流」という言葉を文字通りにとらえれば、そこに表れているのは主とは異なる流派・・であるという認識だ。男性歌人の女性歌人への影響はもちろん語られ、女性歌人の女性歌人への影響も「女流」の名のもとにまた語られるけれど、女性歌人の男性歌人への影響についてはなかなか語られることはない。それが存在しないはずはないのに。

 しかし八〇年代に入り、ようやくそういった状況が打破されるときが来たかのように思われる。俵万智は「正史」において、口語短歌の第一人者として扱われているのだから。短歌史において何らかの第一人者とされていると言えそうな女性歌人は、ほかには与謝野晶子くらいのものだろう。その晶子にしても、先行する理論家としての与謝野鉄幹の存在を背後にちらつかされることで、はじめてその扱いを許されているようにも思える。
 しかし本当に、短歌史が長い呪縛から完全に解放されたと言ってよいのだろうか?

 短歌の口語化を推し進めた世代は、大きくライトヴァースとニューウェーヴの二つに分けて呼ばれている。『岩波現代短歌辞典』ではライトヴァースの歌人の例として、中山明、仙波龍英、林あまり俵万智加藤治郎の五人が挙げられている。一方、同辞典によれば「ニューウェーヴ三羽烏」は加藤治郎荻原裕幸、西田政史である。西田が作歌を中断したのち、その位置は穂村弘が占めただろう。
 早くに作歌を中断した(それゆえに歌壇におけるエコールや権力関係からは遠くなった)中山と仙波を除いた三人のライトヴァースの代表的歌人のうち、男性である加藤のみがライトヴァースからニューウェーヴ編入されている。ニューウェーヴを代表する歌人とされるのが全員男性である一方で、ライトヴァースには俵と林という女性だけが取り残されたことになる。

 俵と与謝野晶子の評価のされかたには多くの共通点がある。林あまり/山川登美子という女性がライバルとして対置されることもそうだけれど、作品が持つ「あたらしさ」がもっぱら新たに訪れた時代・・を、鋭敏な感性(そこにはすぐに「女性らしい」という形容がかぶせられる)によって反映したものだとされることもまたその一つだ。晶子なら近代、俵ならバブル期という時代を反映しているという評価は、それ自体が肯定的なものだったとしても、往々にして作者の短歌史という歴史・・(ここでの時代・・歴史・・の区別は、時代小説と歴史小説の区別と同じであり、時代とはすなわち没歴史的なものだ)に対する意識、方法意識の存在を等閑視することにつながるし、むしろそれが欠如しているという批判とほとんどと表裏一体と言ってよい(まさに「突然変異の大輪」――ところで阿木津は俵を、まさにこのような論によって批判している*3。それが「女性だから」という理由ではないとしても)。
 現代においてライトヴァースとニューウェーヴをあえて区別して語ることとは、すなわち「方法意識を持たず、時代に対応して自然に口語で作歌していた女性歌人」「明確な方法意識に基づいて口語短歌を理論化した男性歌人」という構図を作りだし、俵や林を ことなのではないか。

 俵が方法意識をもたずに、ただ時代に対応しただけで革新的な作品を作り上げた、とは私には思えない。ライトヴァース・ニューウェーヴと八〇年代、バブル期という時代の雰囲気の関係は、その当事者たちをはじめとする多くの人が強調しているけれど、ことを口語化という現象に限るとある疑問を抱く。散文においては、言文一致はずっと以前にすでに定着していたではないか。時代の雰囲気説は、口語短歌がこの時期に定着した・・・・理由の説明としてはもっともらしく聞こえても、それ以前に定着しなかった・・・・・・・理由を説明していない。
 俵に歴史への意識が存在したことは、たとえば佐佐木幸綱の指導のもとで作歌をはじめたことや、あるいは村木道彦を愛読していたといったしばしば語られるエピソードによって裏付けられるはずだ。しかしそれにしても――佐佐木幸綱も村木道彦も、ああ、またしても「男」だし、エピソードはむしろ、「あの俵万智に影響を与えた」というように、佐佐木や村木の偉大さを称揚するためにばかり紹介されているように思える。

 なんだか言い訳めいてしまうけれど、すでに書かれて、語られてそこにある「正史」が、思考を規定し、抑圧する力はとても強い。あるひと(その性がどのようなありようであったとしても)が短歌史について書くとき、女性の作者が含まれていない、あるいはサブ的なものにとどまっているとしたら、その理由は個人のセクシズムによる場合もあるだろうけれど、むしろ既存の「正史」に書かれていなかったために、それ以前の/以後の、あるいは同時代の作者とどのように関係しているかという線をうまく引けないためという場合も多いのではないのだろうか。
 もちろん無自覚であったとしても差別的であることには変わりがなく、歴史について書くにもかかわらずその程度の批判意識が欠如しているのは問題だ、という批判はもっともだし、そもそも男性中心に書かれた「正史」の枠組み自体を問い直さずに、女性を書き加え、「前衛短歌」や「ニューウェーヴ」である、男性の歌人と同等の存在であるなどと認定しても根本的な解決にはならない、というのも極めて真っ当な意見だ。しかしそれでも、とりあえず「正史」を女性歌人のしっかりと書かれたものにしておくことは、差別の再生産と呼ぶべきサイクルを止めるために、まずは行うべきことだと思う。

  B

 ところで俵には歴史への意識が存在し、その作品の「新しさ」は方法意識のもとに実現されたものだったはずだ……というようなことを書くと、それに続けてだから・・・はえらい、歴史にしかるべき形で書かれるべきだ、というふうにうっかり筆を滑らせてしまいそうになるけれど、しかしここで立ち止まって問い直さなければならないのは、仮に歴史を十分に知らず、方法意識を持たずに作られた「あたらしい」作品があったとしたら、それは歴史に書かれるに値しないのか、ということだ。

 二〇〇〇年代の前半に穂村弘が提出し、半ばジャーゴンと化した「棒立ちのポエジー」「修辞の武装解除」という批評用語に該当するとされた作品、またその作者への毀誉褒貶は激しくとも、当時新設された(そしてどれも限られた回数で終わった)いくつかの新人賞をはじめとする方法でとにもかくにもデビューした新人たちは、一つのムーブメントを作ったはずだ。
 しかしそれらの賞のことごとくで選考委員を務め、新人たちを送り出した穂村自身が『短歌という爆弾』の文庫版に増補されたインタビュー*4において、「八〇年代の口語」の次のパラダイムシフトを達成しうる歌人として名を挙げるのは、「鬱屈とした時代感情を持つ男性作家」と呼ぶ斉藤斎藤と永井祐だ*5。この主張には斉藤・永井の登場まではニューウェーヴ世代が作ったパラダイムの支配が続いている、という前提が必要であり、すなわちおおむねその間に登場した「棒立ちのポエジー」の作者たちはパラダイムを更新していない、という認識がここに表れている。
 あれほど注目していたはずの、しかも少なくとも個々の作品や作者のレベルでは間違いなく肯定的に評価していた「棒立ちのポエジー」の作者たちを穂村が無視した理由は、同じインタビューにおいて、ニューウェーヴ世代とその後の世代の歌人との差として「短歌というジャンルにおける『革命』のイメージ」の有無を指摘したことに表れている*6。革命、つまりパラダイムの更新は、それを行おうという意図を持つものによってのみ達成される、と穂村は考えている。
「棒立ちのポエジー」がパラダイムを更新していない、という認識が穂村だけのものではないことは「ポスト・ニューウェーヴ」という言葉が未だ歴史上のものとなっていない、つまり斉藤・永井や、あるいは更に若い世代の作品を指すために用いられていることからも端的に分かる。加藤治郎ニューウェーヴ世代が短歌史上のエポックである理由は、それが「近代短歌の残された最後のテーマ」である口語化と大衆化を達成したことで、短歌史が「革新という近代の原理から自由になった*7」からだとしているけれど、既存のパラダイムを更新し、短歌を革新していく歴史は既に終わっているという認識に立つ限り、その後にありうる短歌はその都度の時代に対応して修正が加えられたニューウェーヴのマイナーチェンジ・・・・・・・・・・・・・・・・でしかありえない。

 例に挙げられた作者の大半が女性だった「棒立ちのポエジー」の歌人たちにはパラダイムを更新しようという意識がなかった、というのは偏見ではないか、と思う。例外の一人だった永井祐が、のちに少なくとも穂村の認識において「棒立ちのポエジー」から外れ、その下のより歴史に対して意識的であるとされるグループに編入されたことからは、ライトヴァースとニューウェーヴの関係における加藤の事例を想起させられる。先行した女性歌人たちには方法意識がなく、後続の男性歌人によってはじめて理論化が行われた、というような史観も共通しているのではないか。
 しかしもっと根本的な問いは、この節の冒頭で述べたとおり、そもそも「パラダイムの更新は、それを行おうという意図を持つものによってのみ達成される」という前提が正しいのだろうか、ということだ。
 穂村が「棒立ちの歌」「修辞の武装解除」という語をもって示したものは、 である。そのような現象が事実として起きたのならば、それは当人たちの意図などもはや関係なく、まさにパラダイムの転換と呼ぶべきもの以外の何物でもないのではないのだろうか。

*1:[2016]「瀬戸夏子ロングインタビュー」、『早稲田短歌』45、早稲田短歌会、27頁。

*2:阿木津英[1992]『イシュタルの林檎』、五柳書院、8-9頁。なお瀬戸の『短歌』2017年2月号の時評もこの部分を含む個所を引用している。

*3:阿木津、115-117頁。

*4:「爆弾のゆくえ 現代短歌オデッセイ2000~2013」

*5:穂村弘[2013]『短歌という爆弾」、306-307頁。

*6:同上、300頁。

*7:加藤治郎[2007]「ポスト・ニューウェーヴ世代、十五人」、『短歌ヴァーサス』11、35頁。

『同志社短歌』三号

 大阪文フリで購入。『同志社短歌』を入手するのははじめて。
 学生短歌会の機関誌名に大学の正式名称が使われているのは珍しい気がする。他は『早稲田短歌』くらい? だいたい『◯大短歌』だし。 裏表紙に大学の徽章が入っているあたりに短歌サークルには珍しい強い愛校心を感じる(冗談です)。

連作

将来は犬飼いたいね、犬うんぼくたちはくたくたのままコンビニへゆく
/あかみ「どうせそこそこの幸せ」

 鉤括弧をかければ「将来は犬飼いたいね、犬」「うん」なのだろうけれど、それをかけないことで2つの発話、ひいては発話者間の境界が曖昧になっているのがよいと思う。三句で「ぼくたち」という語が出てくることによって2つの発話の発話者は1つに縒り合されるのだけれど、もしかすると最初から「ぼくたち」という1つの存在だったのかもしれないとも感じられる。それはどちらの発話が「ぼく」のものかはっきりさせていないからできることなのだろう。小さな幸せを感じますね。
 連作としてはタイトルもそうだけれどやや不全感に寄っているようにも読めるので、私の感想は明るく取りすぎかもしれないけれど。


テーブルに垂れゆくような腕をして青年はシクラメンと眠る
蛇が来てそのまま幹に巻きついたように溺れて斃れる身体
/田島千捺「へだたり」

 この2首をすごくBLっぽく感じたのだけれども、1首目に関してはたぶん「少年は少年とねむるうす青き水仙の葉のごとくならびて」 (葛原妙子)を連想したからだ。


半地下の店からあがる夕方の風に帆となるからだをあゆむ
/田島千捺「へだたり」

 「あがる」が終止形か連体形がよく分からないのだけど、そのことによって「半地下の店からあがる」ことと「風に帆となるからだをあゆむ」ことがシームレスに接続している。店からあがってきた人がいつのまにか風を受けてずんずんと歩いているように思えて、わずかに時間を跳躍しているような印象がある。こういう歌はうきうきしますね。


ネクタイを締めすぎている心地して四条河原町大交差点
/森本直樹「ちいさな湖」

 下句の「四条河原町大交差点」の字面のインパクトは実際の大交差点のスケールに匹敵していると思う。それに比べると上句の字面はいかにも平凡で頼りなくて、まるで大交差点を前にして佇んでいる私のようにも見える。

ペンギン の 解体 動画 手 を つなぐ ふたり は 鑑賞 する 屋上 で
/上篠かける「ばらばら」

 

眼に薄く水を張らせてあるきつつすべては海市のようなものだろう
/北なづ菜「お祈りを終えたひとびとのこと」

 「つつ」とつないだ以上この場合下句にも動詞が来ないとおかしいし、おそらく最後に(と思う)が省略されているわけだけれど、書かないことによってこのような想像がただ浮かんだということだけが純粋に伝わってくる。上句と下句の間で舞台が外界から内面に移動している、とでも言えばよいのだろうか。
 ところでこの下句は「すべてはかいしの/ようなものだろう」と切れば四句と結句はどちらも8音なのに、なんだか結句のほうがより長い気がする。その差が生じる理由として

・4-4と3-5の違い、つまり句を更に分割したとき後半がより長い部分になるほうが長く感じる
・四句よりも結句のほうがより定型への合致が強く期待され、そのために「ような」の段階で残り4音のフレーズを強く想像してしまうから
なんてものを考えているのだけれどもどうでしょうか。
 したり顔で語っているけれど最初「海市」の意味が思い出せなくて調べた。その自分の間抜けっぷりに似つかわしいような歌が何かあったような気がして考えていたけれど、答えは「言海を海だと思うひとが居て心の中に工場が建つ」(山根花帆/『阪大短歌』4号)だった。私に似つかわしいかはともかく、海市も言海もきれいな言葉ですね。

 作者によって字空けが半角になっていたり、1首だけフォントサイズが大きくなっていたりしたのが目についた。特に半角スペース問題については他の冊子や引用ツイートなどでも頻繁に目にして、個人的にはけっこう気になってしまう。冊子に関しては特記のない限り編集サイドで全角一字空けに統一、とかルールを作ってもよいと思うのだけれど、そうすると編集をする人の手間は増えてしまうかな。

動物園吟行歌会録

 京都のやつらはすぐに(京都府立)植物園を歌にしやがって! と最近言ったけれどこれは動物園。

身をよじるクジャクの羽根は背を流れ紫陽花を踏んで来た/田島千捺
という歌への評が興味深かった。

あかみ「あじさいを、踏ん……」
山田「結句三音じゃない?」
あかみ「五、五じゃない?」
山田「五、五、いや七、三?」
田島「なんで三になるんですか?」
山田「ちょっとまって、なんもない(笑)」
あかみ「せめて八、二やで」
山田「あじさいをふん…あじさいを、ふんできた。ああ、五、五ね」
あかみ「八、二か五、五だよ」

 ここではあっさり否定されているけれど、私も初読のとき七、三に、「あじさいをふん/できた」と句切って読んでいたし、いまでも感覚的にはそちらのほうがしっくりくる。言われてみれば確かにおかしいのだけれど。「踏んで」の「ん」が鍵なんじゃないかとは睨んでいる。

〈追記〉
「〈紫陽花を/踏んで来た〉〈紫陽花を踏んで/来た〉と切らせる文節の力より、〈紫陽花を踏ん/で来た〉と切らせる、定型と「ん」の合力のほうが大きい」からでは、三句までは定型であるし、という意見をいただいた。確かにその通りだと思います。
それまでが定型ゆえに四句も同じように定型であることを期待し、そこにちょうど「ん」という句切りやすい音がくるとそれに飛びついてしまう、という感じだろうか。「合力」という表現がいいですね。



 普通ならカットされるような箇所まで文字起こしされていたり、一方で必要なのかわからない補足があったりするのがおもしろい。

あかみ「(略)田島がすごいちゃんと(レコーダー)やってくれてる」
田島「これ(音が)届くかわかんないんだよね、全域に」
御手洗「ではちょっと声を張り気味で。そのまま続きを」

とか。

評論

 御手洗靖大「和歌とはなにか」について言うには「古典には疎いので……」とお決まりの前置きをしなくてはならないのだけれど、論文調(レポート調?)の硬い文体や内容と、その一方で「心の叫び」という曖昧な定義や個人的な会話を根拠として提示にしているところにギャップを感じた。評論と銘打ってあるのだから別に学術論文の作法に則る必要はないのだろうけれど、でも変な気がするなあ。


 寄稿者数は決して多くないけれど、多様性のあるという印象を誌面から受けた。各人がばらばらの出自(インターネットだったり別の学生短歌会だったり国文学だったり俳句だったり)を持っていて、しかし互いに無関心というわけではないのだろうな、となんとなく感じられるところを好ましく思う。おもしろく読みました。
 ブースではフリーペーパーとしてあかみ『ソルボンヌ通信番外編』はたえり『多分ごめんね』『森本直樹(森直樹)自選五十句+α』の3枚も配布していた。

 『ソルボンヌ通信番外編』は短歌のアンソロジーや入門書などを紹介するガイド。入門書として中川佐和子『30日のドリル式初心者に優しい短歌の練習帳』という本が紹介されているのがちょっと意外だった。未読ながらタイトルから想像するにハウツータイプの入門書だろうけれど、学生短歌の人はそういう本はあまり読まないと勝手に思っていたので。今野寿美『短歌のための文語文法入門』が面白そう。
 『多分ごめんね』はイラストがかわいい(連作の横にちっちゃく描いてあるほうが好き)。『森本直樹(森直樹)自選五十句+α』はこれ自選が50句ないですよね?

ほしいものリストの一番上にあるパーティーグッズ ずっとしんどい/はたえり『多分ごめんね』

花は葉に乱丁のある同人誌/森本直樹