良い旅を

平成アイマス楽曲大賞(1)ユニット曲部門

ch.nicovideo.jp
www.nicovideo.jp

 企画に乗じて語りたいだけ感もありますが。7月末まで投票可能なのでみなさんもぜひ。
 曲の把握度合いは以下の通り。


アイマス」(AS+876,961関連)→ぷちます!と一部カバー(特にMA2以前と一番くじ)以外
「デレマス」・「ミリマス」→おそらく全曲
「SideM」・「シャニマス」→多少
ゼノグラシア」・「アイマスKR」→(ほぼ)知らない*1
「その他」→前三者のラジオ関係のみ


 今回は「アイマス」「デレマス」「ミリマス」「その他」の範囲から選ぶことにしました。SideM・シャニマスは楽曲以外のコンテンツにほぼ触れていないため、思い入れ的にも合計たった(!)50曲に入れるのは難しかったので。『Learning Message』『羽ばたきのMy Sou』『フェイバリットに踊らせて』『アルストロメリア』あたりが好きです。
 なおコメントは投票用のものとは異なります。無駄に長いので分かるかと思いますが。

投票リスト

5pt(1曲)
C230 クレイジークレイジー


3pt(3曲)
A210 CRIMSON LOVERS
D103 SUN♡FLOWER
E602 Flooding


2pt(6曲)
A121 MUSIC♪
E006 Marionetteは眠らない
E410 brave HARMONY
E503 FairyTaleじゃいられない
E526 I did+I will
E601 アイル


1pt(15曲)
A001 THE IDOLM@STER
A128 99 Nights
C009 EVERMORE
C102 Nation Blue
C222 Kawaii make MY day!
C305 秋風に手を振って
C307 さよならアンドロメダ
C503 Stage bye Stage
D012 Heart Voice
D015 Trancing Pulse
E010 瞳の中のシリウス
E212 深層マーメイド
E416 Raise the FLAG
E519 ハーモニクス
E603 君との明日を願うから

コメント

曲名の右は(作詞者/作曲者/編曲者※作曲者と別の場合のみ)。所属等は省略しています。

5pt曲

クレイジークレイジー(MCTC/Taku Inoue)


 お馴染みイノタク曲の中でも一番好き。好きなポイントは山ほどあるけれど、結局は「ラストのI love you 最初に言うよ」に尽きる気がする。
 詳しくは以下参照。他のイノタク(というかMCTC)曲にも触れています。
hanasikotoba.hatenablog.com

3pt曲

CRIMSON LOVERS(只野菜摘広川恵一


 ドラムにベースにギターにその他もろもろの音(掃除機まで使っているらしい)にもちろんボーカル、とすべてが超かっこいい。これだけ尖った曲なのにずっと聴いていてもまったく疲れないのも不思議。インストが縦横無尽に暴れまくっているのに、サビだけは(パワーはすごいけれど)いっそ単調すぎるほどになってボーカルの力にすべてを託しているところも素敵。
 「進化した私を気にいっている?」「進化した私を気にいっている」「進化した私を気にいってる?」(ここが一番好き)→「進化する私を気にいっている」という四段活用もエモいし、「リスク承知で 大好き 魔法をおくる」という荒っぽい歌詞も曲にはまっている。



SUN♡FLOWER(坂井竜二/山崎真吾)


 相手をひまわりに喩える→ならば私は太陽であるという発想がまずすごいし、実際はあなたと私はひまわりでも太陽でもないのに、その二つが「ベスト オブ ザ カップル」であると言い放つことで自分たちの関係を称揚するに至ってはもはや傲慢にすら思えるほどの圧倒的なつよさがある。けれどもそれが「暗い顔 なんとかしてあげたい」なんて祈りから来ているものであることを考えると見方も変わるし、「笑った顔が大好きだから/輝き続けていたいの」という結実のかたちには泣いてしまう。
 明るいけれどどこか切ない、みたいな曲調、『Orange Sapphire 』なんかもそうだけれどどういうメカニズムでそうなっているんだろう。ソロも個性が出まくってて全部好き。



Flooding(真崎エリカ矢鴇つかさ


 ゲッサン版ミリオンライブ!のオタクなので(この後何度も出てくるフレーズ)。
 クレシェンドブルーというユニットの曲としてすべてが完璧な歌詞。「きっと出逢いは革命」で、それが「堰を切って/氾濫して今を運命に変えてく」という構図が美しい。出逢いそのものは運命なんかじゃなく、革命といえどもあくまで契機でしかなくて、でもそれがぶつかり合うことで運命に変わる。
 ソロバージョンもよく聴くけれど、純粋に曲としては考えるとユニット版に比べてやや単調な感じは否めず*2、しかしそれが逆説的にこの曲はメンバーの多様な個性を前提とした「5人の曲」として書かれている、ということを感じさせてくれる。とはいっても他の3人のソロも早く聴きたいけれど。星梨花のソロとか聴いたらまた泣いてしまいそう。

2pt曲

MUSIC♪(yura/渡辺量)
 

 ポップだけれど音は厚い、人間の話のはずなのにどこか神秘的、軽快だけれども明るいだけじゃない。コーラスもよいし、フルートが目立っているのも個人的な加点ポイント。
 M@STERPIECE初回限定盤のBlu-ray Audioの音源がかっこいい。劇場版のあのシーンでこの曲を使った発想は悪魔的だと思う(とても良かったけれど)。



Marionetteは眠らない(こだまさおり高田暁


 格好良く怪しく挑発的。さっきまでの価値観全部変えちゃうくらい夢中になれることあるって信じてみたい。4人中3人AnなのでミリシタでAn属性になっているのはまあ当然なのだけれど、天使とは……となる曲。
 星井美希学は先行研究が無限にありそうなので迂闊に言及できないけれど、それにしてもラスサビ頭のソロパートは知っている範囲で美希史上格好良さの極点だと思う。ハモリもみんな強くて誰が歌っているのか分かど、その中でもやたら目立っている麗花さんも聴きどころ。



brave HARMONY(結城アイラ山口朗彦


 属性曲、大人数のユニット曲の類ではアイマスで一番格好良さに振り切っていると思う。イントロからテンションMAXになるのに、2番の入りで更にもう一段階上げられる。
 「ひとつになろう/ひとつになろう」「世界を 抱きしめよう」なんて歌詞が当然のように格好良く聴こえるのはよくよく考えるとすごい。



FairyTaleじゃいられない(結城アイラ堀江晶太


 「青く燃えている」系の曲は、敢然と外に火を放つタイプ*3と身の内で火を保ち続けるタイプ*4に大別されると思うのだけれど、これは両者のハイブリッドだと思う。身の内の火が外に溢れ出してしまったとでも言うべきか。余裕のなさ、弱さも抱えているところが好き。
 激情的、ちょっと思いつめすぎなほどに張りつめた歌詞は、アイドル個々で見ると必ずしもそのパーソナリティにしっくり来るというわけではないのだけれど、みんなで歌うとちゃんと決まっていて、単なるゲームシステム上の属性を超えて、これがユニット「フェアリースターズ」なんだ! という説得力を感じる。



I did+I will(安藤紗々/gen、伊藤“三代”タカシ/gen)
 
 クセになるサウンド。重いけれどもどこか空虚な低音と、高音寄りのボーカルの乖離が絶妙。このテンポと空気感でブチ上がる曲もなかなかない。
 音楽のジャンル分けはまったく分からないのだけれど、これはヴェイパーウェイヴと呼んでよいのだろうか。コミュやドラマCDと合わせるといろいろと思うところがあるので、いずれなにか書いてみたい気はする。



アイル(きみコ/佐々木淳/nano.RIPE


 ゲッサンのオタクなので(二度目)。伊吹翼の、ジュリアの、真壁瑞希の、そして漫画のストーリーを重ねればもちろんあまりにもエモいが、単体で見ても普遍性があって、かつめちゃくちゃ完成度の高い歌詞だと思う。
 キャッチーなフレーズが山のようにあって語らなければならないことが海のようにあるけれど、一つだけ挙げるなら「行く手阻む山の中をくり抜いて向こう側へ/数秒間だけ見えた海の水平線キラリと光った」。なんだか東海道本線の小田原―熱海間みたいだけれど、エモーショナルな歌詞の中にこういった喚起力の高い風景描写が入ることで曲全体が引き締まっているし、それだけで終わらず「山」「海」「トンネル」というモチーフが全体を通して活用されているのもお見事。

1pt曲

THE IDOLM@STER(中村恵/佐々木宏人


 たぶん同世代にありがちなように私のアイドルマスターとのファーストコンタクトは初期のニコニコ動画で、そこで最初に気に入ったのがこの曲だった。電子的な、あまり聞きなれなかったジャンルのサウンドは心地よくて、その反面歌詞に対してはアンビバレントな思いを抱いたことを覚えている。自分が「男」であることがあまり好きではなかった、好きで「男」でいるわけじゃない、と思っていた身としては「男では耐えられない痛みでも/女なら耐えられます 強いから」に象徴されるような主題は率直に言ってつらいもので、一方で「女性」が主体的に、社会規範と対立してでも自分のやりたいようにやっていくことを肯定するスタンス*5は好ましくも感じられたし、自分もまた規範に抑圧されていく部類の人間だろうと考えていた身としてはどこか励まされる気もした。
 それから十数年が過ぎるうちにそれなりにフェミニズムを学んだ目でこの歌詞を見ると、突っ込みたい細部はまあいろいろあるけれど、その一方で後者のスタンスはアイマスの私の好きな側面の根底になっている気もする。今だと「女性」のこの程度の主体的な振舞いというのはオタクカルチャーを背景にした作品でもそれなりに許容(という言い方も嫌だが)されていそうだけれど、当時としては珍しかったのでは。



99 Nights(MCTC/Taku Inoue)


 イノタク。ユニット曲部門に入っているがソロでしか聴いたことがない。
 美希のソロが他の曲にあまりない歌い方で良い。特に「ねえ聞いて あのね あのね/君が好きよ」は必聴。



EVERMORE(森由里子田中秀和滝澤俊輔


 豪華な作詞作曲陣に相応しい名曲の風格。まあこの曲はCメロですよね。
 「TVで 舞台で 世界で」も妙に好き。舞台という語が好きなだけかもしれない。



Nation Blue(遠山明孝/同)

 シンデレラにおけるクール属性という概念を象徴する曲、という私見を持っている。『オルゴールの小箱』や『咲いてJewel』はCoでもみなが歌えるとは限らないけれど、これはみんな歌える、むしろこれを歌えるからCoなのだ、というか。歌詞もいい。
 


Kawaii make MY day!(八城雄太/石濱翔

 「会いたいからオシャレをした」ではなく「オシャレをしたから会いたいな」 という歌詞に共感……できるかと言えば個人的にはそうでもない(私は「会うために仕方なく身なりを整える」なので……)とはいえ、正確な表現だなあと思うし、こういう歌詞を発信して、それが受け手に評価されるコンテンツであってほしい気持ちはある。「別にモテたいわけじゃないんです/ただまっすぐ笑ってたいだけなんです」も含めて。
 完全に余談だけれど、昨年北海道開拓の村に行った際、旧恵迪寮(北海道大学の寮)での過去の寮歌の展示に「八城雄太君作曲」の文字を見つけてびっくりした。同一人物?



秋風に手を振って(森由里子/Yoshi/若林タカツグ


 風シリーズはどれも好きだけれど1曲選ぶならこれかな。ラスサビの有香ソロパートがエモすぎる。



さよならアンドロメダ(MCTC/Taku Inoue)


 どうせみんな入れるだろうし(あと自制しないとイノタクだらけになるので)外そうかと思ったけれど、聴き直したらまあ無理でした。
 ソロはそれぞれまるで別の曲のように聴こえて、この3人を組ませた人は偉いなと思う。いつかオリメンで聴きたい。



Heart Voice(磯谷佳江/小野貴光/玉木千尋


 恋の歌に見せかけて、もっと普遍的な勇気の話をする、みたいなやり方が好き。



Trancing Pulse(AJURIKA/上松範康藤永龍太郎


 加蓮PとしてはTFを選ぶべきなのかもしれないけれど、(凛の見た目はともかく)決してめちゃくちゃクールや非凡なわけでもない、割と普通の若者の3人がこういった曲でパフォ―マーとして魅せる、というところに惹かれる。
 TFはむしろ普通の若者であることをさらけ出すもので、それはそれで良いのだけれど。



Stage bye Stage(ミズノゲンキ睦月周平


 いや、6thで4回も聴く前から好きでしたよ? まあ見方が変わったことは否めませんが……。
 実際ライブの最後にやる曲としてこれ以上のものが出ることは果たしてあるのか、という気はする。



瞳の中のシリウスこだまさおり/野井洋児)


 この曲もゲッサンでの使われ方が印象的だった。未来に歌ってほしい……。
 サビの透明感ときたら! ちょっと特殊な曲の構成(Cメロが一番の後にある?)もいい。幻の志保ソロが存在するとの噂を探るべく我々はインターネットの奥地へと向かったが値段を見て撤退した。



深層マーメイド(唐沢美帆睦月周平


 格好良い・切実系のデュオという点で、どうしても『アライブファクター』(どちらを入れるか散々迷った)と比較したくなる。外へ向けて自分の存在を誇示するあちらと、内なる海へと溺れていくこちら。歌唱者がほとんど剥き出しなあちらと、あくまで歌の登場人物に成り代わることを基盤としているこちら、という対比もできるかもしれない。
 響・翼の引き出しの多さを感じる曲。生来受け身人間なのでこういう歌詞に共感してしまう。



Raise the FLAG(松井洋平堀江晶太


 普段のイメージ・声質が個性的で、必ずしも格好良い系とは限らない3人が、それぞれそのままの姿で歌うめちゃくちゃ格好良い曲。



ハーモニクス(坂井季乃/高橋諒


 『餞の鳥』も良いけれど、本格的に入ミリオンする切っ掛けになったこちらで。バンドサウンドがジュリア、ピアノが静香要素として、どこから来たんだというサックスがセクシー。



君との明日を願うから(真崎エリカ原田篤酒井拓也


 ゲッ(四度目)。泣く。Aメロ直前のマリンバ? が好き。


振り返り

 3pt以上の曲は最初から不動、2pt以下は大量の候補から無理やり21曲に絞り込む→なんとなくポイントを分けた、という感じ。2ptがミリオンだらけになった(というか半分は6th福岡だ……)のは最近ミリオンの波が来ているからで、時期によってはまた変わってきそう。
 正直絞り込みようがないので、勝手に何曲かのグループを作ってその中から代表して1曲選ぶ、というようなことをやりがちだった。イノタク曲、『アライブファクター』『深層マーメイド』『Emergence Vibe』(「LTDの信号機が絡んでいる格好良い曲」)、「風シリーズ」、『TP』と『TF』、『Flooding』を入れたし『Shooting Stars』はいいか……など。
 落とした曲の話をしてもキリがないけれど、『光跡』は本当に入れたかった。最後のところで落とした理由はただただ私がアイステを一度も聴いたことがないことに尽きますが、そういう人間が聴いてもめちゃくちゃ良い曲なので、ブックレットをどう見ても京急蒲田駅で撮っているベストアルバムで聴いてください。

*1:微熱S.O.S!!』だけはなんとなく知っているけれど、投票するかというと……。ゼノグラシア、なぜか最終回だけ観た記憶があります

*2:現状世に出ているソロが静香・志保という割と正統派タイプだからというのはあると思うが

*3:『brave HARMONY』、『Flooding』、『咲いてJewel』、『Trinity Field』etc.

*4:『Shooting Stars』、『Nation Blue』、『Trancing Pulse』etc.

*5:当時はここまで言語化できていなかったと思うが、少なくともこの社会では「男」のほうが「女」よりも強いものだとされていることくらいはうっすらと分かっていた

清水浩史『深夜航路』

深夜航路: 午前0時からはじまる船旅

深夜航路: 午前0時からはじまる船旅


 昨年あたりから船旅にはまっている。船の良いところは何よりもその居住性だ。バスや飛行機であれば、走行/飛行中の移動は完全に、とはならないまでも極端に制限される。鉄道では進行方向に対して前後には一応自由に行動可能だ。しかし船ならば、進行方向に対して前後はもちろん、左右方向にもかなりの距離を移動できるし、多くの船では上下の階層移動も可能だ。船内で調理をするレストランや大浴場、ゲームコーナーやカラオケのような娯楽施設や、自由に読める本棚があったりもする(釜山から下関への船内で、『機動警察パトレイバー』の漫画版を半分くらい読んだ)。私の乗った船ではコインランドリーが地上よりも安かった。月並みな表現だけれど、まるでホテルのようだ。チェックインしたばかりのホテルを探検したくなるように、船に乗り込むとまずは立ち入り可能な場所をすべて巡ってしまう。とはいえ仮にそういった施設がなかったとしても、充分に楽しめる。このホテルは動くのだから。デッキから単に海をぼんやりと見ているだけでも楽しい。夜には星がとてもよく見える。
 夜行の交通機関として比較すれば、たとえ最安であるカーペットの雑魚寝席ですら、体を完全に横にできるという点で、寝台列車を除くあらゆる夜行交通機関よりも疲労が少ないと思う。就寝するとき以外は船のどこにいてもよいのだし。定期の寝台列車がほぼ絶滅してしまったこの国では、夜行の定期的な交通手段はほぼバスしかないと思い込んでいた。けれども調べてみると、船の夜行便というのは現在でも意外なほど多くの航路が存在している。特に関西発着のものは多く、関西圏ー九州間の夜行バスが撤退した背景には、夜行フェリーの台頭も理由にあるというから驚く。一方、その地域性にはかなりの偏りがあり、南関東を発着する定期航路は、伊豆諸島・小笠原諸島に向かうものに限られているから、私に馴染みがなかったのも納得の行く話ではある。2021年の春に横須賀から北九州への航路が開設予定とのことで、今から楽しみにしている。

 この本はそんな船旅のうち、特に午前0時から3時までに出航する14の定期航路を扱った紀行文集だ。著者の他の本には、項目あたりのページ数が少なすぎて内容が薄く感じられるものもあったが、この本ではそのようなこともなく楽しめた。
 敦賀港から苫小牧東港まで20時間に及ぶ長大な航路から*1、わずか15分の鹿児島港―桜島港までさまざまな船旅。いま私が行きたい場所ナンバーワンであるトカラ列島への航路もある(この本では下船していないけれど)。
 フェリーはたいていトラックの輸送をあてにしているから、徒歩客の乗船は多くない。人が少ない船内でを探索したり思索したり、まどろんだり。船を降りた先の旅も面白い。更に小さな離島航路に乗ったり、廃集落を訪ねたり。

 深夜航路に限らず夜行列車の旅も愉しいが、近年夜行列車はほぼ全滅してしまった。(中略)その代わりに豪華寝台列車(クルーズトレイン)が登場して人気を博している。もちろん豪華寝台列車にも乗ってみたいが、残念ながら2ケタもする運賃を支払う余裕はない。しかも、思い立った時に乗りたいので、先々の予約なんてできない。もっというと、学生時代の貧乏旅行が沁みついているのか、料金が手ごろでないと旅は愉しくない。
 単純に考えると、「お金がもったいない」ということになる。
 でも、そうではないと思う。どうも高額の対価として、ホスピタリティや豪華さをまるまる受け取るということに違和感を覚えてしまう。もちろん、端から事業者は(豪華寝台列車の場合は)富裕層をターゲットにしている。自分自身はターゲットではない。しかし高価な旅は、パッケージされたものを享受するかのようで、そこには手間隙かけて自分流に工夫、アレンジして旅を創造していくという悦びがちょっぴり薄いように思えてしまう。
 そう考えると、深夜航路は素晴らしい。
 お財布に優しいし、広々とした快適な空間を提供してくれる。過度なホスピタリティもなく、乗客を自由に放っておいてくれる。そして、流れる夜の景色とともに、思索する時間、想像する時間をたっぷり与えてくれる。

 引用が長くなってしまったけれど、まさに、と思う。加えていえば、定期航路であることにも魅力があるだろう。土地の記憶、という言葉をよりによって船という交通機関に使うのも奇妙かもしれないけれど、いつも同じ道のりを旅しているうちに染みつくものもあるはずだ。


 とはいえ大局的に見れば、旅客航路を取り巻く状況が厳しいことは間違いないだろう。本書の取材は2017年に行われているが、この中で「孤愁ナンバー1」と評されており、著者の乗車時に他の乗客がいなかったという宿毛フェリーはすでに運航を休止している。所謂RO-RO船、一般旅客が乗れない船に転換してしまう航路も最近は多い。早めに乗っておかなきゃな、と思う。お金がないけれど。


 余談。著者は編集者だそうだけれど、仕事の都合でタイトな旅程となっているものが多い。中でも上述の敦賀港―苫小牧東港航路の、東京の職場から敦賀に直行して乗船し、20時間以上かけてやっと着いた北海道からすぐに飛行機(「深夜飛行」)でとんぼ返りという顛末には勝手に同情してしまった。暇にまかせた旅行ばかりしてきた自分には想像しづらい話だ。就職したくないなあ、でも就職しないと金がない……。

*1:この航路を逆方向に、苫小牧東港から新潟まで昨年乗船した。ちなみに苫小牧東港苫小牧市にはなく、かなりの僻地にある。日高本線胆振東部地震の影響で代行バスだったが)の最寄り駅から原野を徒歩20分とのことで歩こうと思ったが、羆が出るという情報に怖気づいてやめた

定型における交換可能/不可能性について ――五島諭『緑の祠』を中心に――

※『羽根と根』4号初出評論を元に、誤字脱字等を訂正した


  


 短歌に興味を持って間もない人と話していると、おすすめの短歌入門書をよく聞かれる。また大型だけれどもそれほど短歌に力を入れていない書店の短歌コーナーに行くと、そのスペースの多くは入門書に占められている。
 短歌の世界に足を踏み入れようとしている人の多くが入門書を求めるのは、短歌という馴染みのなく得体の知れないものを作るには、そのための特殊なスキルが必要だと考えるからだろう。そのような場合想定されている「入門書」は、ほとんどの場合短歌の作り方のいわゆるハウツー本だし、実際世の短歌入門書の多くはそのようなものだ。
 三上春海と鈴木ちはねのユニットである稀風社が発行した『誰にもわからない短歌入門』は、そういった一般的な入門書とはだいぶ趣が異なる本だ。そこに載っているのは、三八首の短歌(ではないものもいくつか存在する)に対する三上・鈴木の往復形式の批評とゲストによる三上・鈴木の歌に対する批評、合計七八個の一首評である。一般的な短歌入門書には間違いなくあるだろう、短歌の用語や技法を体系だてて解説するページもない(もちろん一首評のなかでそれらが説明されることはあるが、到底網羅的ではない)。この本を読んでも、短歌を作ることに直接的に役立つとはちょっと思えない。ではそのような本が持っている「入門」書としての機能はなんだろうか?
 たとえば鈴木は〈ぼくゴリラ ウホホイウッホ ウホホホホ ウッホホウッホ ウホホホホーイ〉(菱木俊輔)を、以下のように評している。短歌コンクールの高校生の部で田井安曇が選び、インターネット上で嘲笑的に(もちろん、と言うべきなのかはわからないけれど、嘲笑の対象となったのは選者であり、ひいては歌壇だ)話題にされたこの歌を取り上げる入門書はおそらく空前絶後だろう。

 昔の人のことはわからないが、少なくとも今の人は誰しも生まれつきに七五調の詩型を知っているわけではなくて、仮にいま僕やあなたが短歌や俳句のような七五調の定型詩を詠むのだとすれば、その意識はきっと後天的に体得されたものなのだろう。多くの場合、僕たちは人生の中のどこかで、何かのきっかけで短歌という詩型に出会って、そして今ここにいる。その出会いを劇的な経験として覚えている人も少なくないはずだ。あるいは、今まさにその出会いの渦中だという人もこの頁を捲っているかもしれない。
(中略)
 この歌にはそういう、未知なる短歌定型と自分が初めて衝突したときの驚きや興奮、新しい玩具を見つけた高揚感のようなものが感じられる。短歌定型のすごいところは、どんな言葉を入れようとも、それを定型が許す限りは、その言葉は短歌になってしまうという点だ。

『誰にもわからない短歌入門』の特色であり素晴らしいところは、眼前にあるものが短歌である(そして短歌でないものであれば、それが短歌でない)という前提にそれぞれのやりかたで愚直なまでに立脚し、自分が「誰にもわからない」短歌というものを読んでいると強く自分に言い聞かせながら短歌を読んでいることだ。その結果として三上と鈴木、それに二人のゲストたちの一首評には短歌というものを少しでもわかることにつながるヒントが数多く記されている(『誰にもわからない短歌入門』を読んだ人ならば、この評論もまたそこから多くのヒントを受け取っていることを読み進めるうちに察すると思う)。
 結論を言ってしまえば、『誰にもわからない短歌入門』は、短歌を読むことへの入門書なのであり、だから作り方の入門書と趣が違うのは当然のことだ。読者は三上と鈴木(とゲスト)が短歌をどう読んでいるかを読むことで、短歌をどのように読めばよいか、どのように読むことができるのかを学ぶことができる。短歌を作ることと違って、読むことに特殊なスキルが必要だということはなかなか意識されづらいが、しかし間違いなく必要なのだ。少なくともそうやって読んだほうが楽しめる。
 では、そういった短歌を読むことに必要なスキルを駆使した、いわば短歌用の読み方とは具体的にどのようなものだろうか? 第一は『誰にもわからない短歌入門』のように、それが短歌であると意識して読むことだろう。なにしろ作者はそれが短歌であると思い、短歌として読まれると思って作っているのだから、そうしなければ多くのものを見落としてしまうことになる。
 他にはどのようなものがあるだろうか。おそらくそれは短歌に固有のルールと関わってくるはずである。短歌に固有のルールとはなんだろうか。明記されているもの、はたまた暗黙の了解、様々なものがあるだろうし、当然人によって採用しているルールも異なるだろうけれど、一つほぼ全員の同意を得られそうなルールがある。それは短歌という詩型の原理的な定義、すなわち短歌は定型詩であり、その定型は五・七・五・七・七である、というものだ。このルールと関係する「短歌用の読み方」があるのではないか、と推測したところで話を進める。


   


 穂村弘の『短歌という爆弾』はあれほど広く読まれていながら「入門書ではないよね」などと言われがちであるけれど、その理由もやはり本の大半(3章「構造図 ――衝撃と感動はどこからやってくるのか」)が、短歌の読み方の入門であるからだ。『誰にもわからない短歌入門』と『短歌という爆弾』は、個性的でありながら同時に普遍的な短歌の本質に迫る読み方を持つ手練れの読者が、実践を通して自らのスタイルを開陳することで短歌の読み方を教え、あるいは挑発するという点で、極めて似通った性格を持つ本だと思う。
 ところで、『短歌という爆弾』の副題は「今すぐ歌人になりたいあなたのために」であるけれど、これはなにか示唆的な気がする。紙幅の大半を短歌の読み方の入門に割く本にこのような副題を付す穂村が考える「歌人」の要件には、もしかすると単に実作者であるというだけでなく、短歌を読むためのスキルを持っているという要素も含まれているのではないだろうか? 実際、「〈読み〉の違いのことなど」(『短歌の友人』所収)という文章で、穂村は以下のように書いている。

 歌人の〈読み〉の場合、それが自分の〈読み〉と異なっていても、〈読み〉の軸のようなものを少しずらしてみれば理解はできることが多い。大きくいえばそれは個々の読み手の定型観の違いということになると思う。
 それに対して、他ジャンルの人の短歌の〈読み〉については、定型観がどうとか〈読み〉の軸がどうとかいう以前に、「何かがわかっていない」「前提となる感覚が欠けている」という印象を持つことが多い。(中略)「前提となる感覚が欠けている」とはどういうことか。これをうまく表現するのはなかなか難しいのだが、例えば、「うたというのは基本的にひとつのものがかたちを変えているだけ」という捉え方はどうだろうか。実作経験のない読み手には、この感覚もしくは認識が欠如しているように思われてならない。

 穂村は「歌人」と「実作経験のない読み手」=「他ジャンルの人」の〈読み〉には差異があると述べている。とはいえ短歌というジャンルが閉鎖的なものだとこれ以上思われてはかなわないので慌てて勝手な補足をしてしまうけれど、これは歌人=実作者にしか会得できない奥義や真理があるなどという話ではなく、おそらく実作経験によって修得しやすい〈読み〉のスキルがある、ということだと思う。*1
歌人」とそうでない人の〈読み〉の差異を説明するために、穂村は「うたというのは基本的にひとつのものがかたちを変えているだけ」という捉え方を提案している。穂村はこの感覚/認識を「歌人はみな無意識的に知っているように思われる」と続けており、「歌人」であるかはともかく、少なくとも実作者である私にも確かにそういった感覚は理解できる。短歌の根源であるというこの「ひとつのもの」とは一体なんだろうか。穂村は評論のなかで。近代以降の短歌における「ひとつのもの」とは「〈われ〉の『生のかけがえのなさ』」ではないかと回答している。

かけがえのない〈われ〉が、言葉によってどんなに折り畳まれ、引き延ばされ、切断され、乱反射され、ときには消去されているようにみえても、それが定型の内部の出来事である限り、この根源的なモチーフとの接触は最終的には失われない、一人称としての〈われ〉が作中から完全に消え去っているようにみえても、生の一回性と交換不可能性のモチーフは必ず「かたちを変えて」定型内部に存在する。それこそが少なくとも近代以降の、短歌という詩型の特殊性だとは言えないだろうか。
 先に述べた歌人の〈読み〉における「復元感覚」とは、このような「生のかけがえのなさ」が、一首の中でどのように「かたちを変えて」存在しているかを把握する働きに他ならない。

 ここで述べられている「ひとつのもの」の正体はモチーフである。しかしフォルムの面から見たとき、もう一つすべての短歌に共通して存在し、根源と言える「ひとつのもの」がある。
 それは右の文章のなかにも姿を現しているものである。そう、定型だ。
 穂村は実作者とそうでない人の読み方の違いについて定型観の問題ではないとしているが、しかしそれは極めてプリミティブなレベルで、やはり定型観の問題ではないだろうか。言い換えれば「歌人」でない人々が「かけがえのない〈われ〉」「生の一回性と交換不可能性のモチーフ」がつねに定型内部に存在するという短歌の特殊性を認識できないのだとしたら、それはそもそも定型の存在を十分に認識できていないために、その作用をも認識できていないからなのではないだろうか。
 この場合の定型観とは、ある一首の歌を読むとき、その背後に「定型」を「観」ることである。実作者は一首を読む際に、その背後に定型を幻視している。そして「ひとつのもの」=定型が「かたちを変え」た結果が、私たちが読んでいる一首の歌であるとすれば、定型は単に五・七・五・七・七の器であると同時に、書かれなかった無数の歌の可能性でもある。陳腐な比喩だけれども、定型は「シュレーディンガーの猫」の箱のようなものだろう。開けられる=書かれるまでは中身がわからない、可能性が渦巻いている容器だ。


 すべての文芸作品は選択に選択を重ねた末に成立するものである。どの形式で書くか、という段階から、既に選択は始まっている。書かれるべき内容が決まっているとき、書くことは数多くの類似する語(類似項は一般に意味になるだろうけれども、あるいは音韻を重視するならば音にもなりうる)の中から、一つの語を選択し残りを切り捨てるという作業を繰り返すことだ。文章はどのようにだって書けるけれど、文章があるあり方で書かれることは他のあり方で書かれないことである。だからこそどうやって書くかを選ばなければならないし、それが文体というものだ。文体を選択する、という言い回しは文体というものの本質を考えれば不正確さを含んでおり、そもそも選択するから文体という概念が成立するのだ。もし一つの内容に対して一つの書き方しかできないのなら、そこにそれぞれの文体スタイルが表れる余地はない。
 しかしなかでも短歌のような定型詩は、その作者に最も厳しい取捨選択を迫る形式であると言ってよいだろう。(多少の破調が許容されるにせよ)器の大きさ、つまり上限の音数があらかじめ決まっている以上、作者が書き込むことができるスペースも制限されている。定型を前提としたとき、なにかを選択することは、他のすべてを諦めることにあまりにも直結する。あることを書くことは他のことを書かないことであり、ある書き方をすることは他の書き方をしないことである。だから定型の内部において、無駄なものの存在は許されない。そこには「かけがえのない」ものしか存在できない。「歌人」は実作を通してそのことを実感していく。
 ある完成した一首の背後には選択されず諦められた無数の可能性、無数の歌があるという認識。つまるところ歌人の短歌の読み方とは、そういった書かれなかったものまで視野に入れて書かれているものを読むことである。目の前に書かれている一首のありかたは、書かれなかった無数の歌をねじ伏せてその位置を占めるに相応しい、ほんとうに交換不可能なものなのか? 作者がこのように書き、他の可能性を切り捨てたのは正当な選択だったのか? 歌会などの場において頻出する「語が動く」「必然性がない」という評価は、ここに書かれている言葉が交換可能なのではないかという疑念の表れであり、書かれなかったものに対する怯えに起因している。
 穂村は入門書や小説誌への連載などといったいわば「歌人」でない読者に向けた文章で、ある歌の一部を原作よりもつまらなくなるように書き換えた改作例との比較によって、原作の魅力を説明するという手法を多用する。これは書かれなかった、作者が切り捨てた歌を可能性の雲の中から無理やり引きずりだして突きつけることによって、書かれた歌の必然性、作者の選択の正しさを強調するという、まさに「歌人」的な〈読み〉の極端な形での実践と言える。


  


 ところで、つねに一首の背後に定型を幻視し、ある歌がそのように書かれている/作者がそのように書くことに相応しい必然性を求める「歌人」らしい読み方を突き詰めると、ある転倒が発生すると予想される。つまり、どんなに修辞的な必然性がなさそうに見えたとしても、、と考えてしまうという逆説だ。


夏の本棚にこけしが並んでる 地震がきたら倒れるかもね
                     /五島諭『緑の祠』


 はじめてこの歌を読んだとき、ひどく戸惑ったことを覚えている。永井亘は「この歌を読んで最初に抱いた感想は、何も言っていないに等しいのではないか、ただそれだけだった」*2と述べているが、私の感想もほぼ同じだった。上句で報告される情景のトリビアルさと把握の大雑把さもさることながら、唐突に地震が起きる可能性を提示し、しかしその結果すらも可能性しか示さない下句はそれにも増して茫洋としていて、こんなことをわざわざ付け加えた意味がわからなかったのだ。しかしほんとうに戸惑った理由は、この軽やかだが単に仮定に仮定を重ねただけに見える下句、特に「かもね」などという放埓な発話体に、なにか強烈な確信が籠っていると感じずにはいられなかったことだ。
 いまの私にはその答えがわかっている。私が感じとったものは、まさに可能性そのものへの確信だったのだ、地震がくるかどうか、こけしが倒れるかどうか、それらは確かに不確定だ。しかし、地震がくるかもしれないこと、こけしが倒れるかもしれないこと、そして倒れないかもしれないことといった可能性があることは確定しているのだ。未来ではあらゆることが起こりうること、つまり不確実さへの絶対的な確信が、この歌にはこもっていると思う。
 しかし私はなぜそんなことを感じたのだろうか? いくら読み返してみても、この歌のどこにもそんなことは書かれていないし、やっぱり何も言っていないようにしか見えない。


 何も言っていないようにしか見えない下句に確信を感じたのは、何も言っていないようにしか見えなかったからだ。
 より正確に言えば、限られたスペースを割いてこんな何も言っていないに等しいことをわざわざ書くのにはなにか理由があるに違いない、それがなにかはわからないけれど、作者にとってこう書かねばならない必然があるに違いない、という思考回路が働いたからだ。作者にはほかのことを書くことも、ほかの書き方をすることも可能だったはずだ。穂村の手法に倣い、たとえば「かもね」を「だろう」と交換すればこの歌はどうなるだろうか。日常に潜むリスクを告発する、というような社会的な文脈で解釈できる「なにかを言っていそうな歌」になったのではないか。しかし作者はそうはせず、あえて「かもね」を選んだ。その理由はなぜだろうか。「地震がきたら倒れるかもね」という曖昧な言い回しは、もしかすると作者にとっては曖昧でもなんでもなく、ほんとうにこのように確信しているからそう書いたのではないだろうか?
 この何も言っていないようにしか見えない下句が、しかし無数のいかにもなにかを言っていそうな下句に勝利して私の目の前にある、と考えるとき、その何も言っていないようにしか見えなさゆえに価値を持つ、という転倒。定型という場においては、一読して*3という逆説、「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」、というメカニズムが存在しうるのだ。
 私は五島がこの短歌定型が生む転倒したメカニズムに極めて自覚的な作者なのではないかと考えている。もちろん五島が実際にそのような考えのもとで作歌したのか私に知る術はないし、五島の歌のすべてがそのようにして成立していると言うつもりはない。たとえば五島の代表歌と言えるだろう〈海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海をみている〉や〈風景に不意に感情が降りてきて時計見て、また歩かなくては〉などは、歌を構成するすべての要素が緊密に連繋して動かすことができない、いかにも交換不可能に見えて実際に交換不可能な秀歌だろう。これから取り上げる歌は、さまざまな方法的試行を行っている(と思われる)五島の歌のうちごく一部にすぎない。しかしそれらは、「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」という転倒の戦略的な利用を目論んで成功している、少なくともそうやって読むことによって輝く歌だと思う。


  


悲しみが湧出しては埋めつくす茶の芽を摘めば少ぅし香る
朝焼けのジープに備え付けてあるタイヤが外したくてふるえる
こないだは祠があったはずなのにないやと座り込む青葉闇
夏の盛りに遊びに来てよ、今日植えたゴーヤが生ってたらチャンプルー
買ったけど渡せなかった安産のお守りどこにしまおうかなあ


 一首目の「少ぅし」という独特な表記、二首目の下句における主語と述語のねじれた関係、そして三首目以降において、歌の一部分だけに登場するラフな発話体。いずれも一読して違和感を覚えるが、その違和感の理由はそれらがあまりにも交換可能に見えるからだ。
 もっともわかりやすい二首目を例に取れば、なぜ「タイヤを外したくてふるえる」、あるいは「タイヤが外されたくてふるえる」ではなぜいけないのだろうか? 同様に「少ぅし」などという表記が奇妙に見えることも、「ないや」「生ってたらチャンプルー」「かなあ」などという部分が周囲から浮いていることも、作者が認識していないわけではないだろうに、この歌はなぜこのように書かれているのだろうか?
 そうやって作者がなぜこのように書いたか、この歌がなぜこのように書かれているのかと疑問を抱く読者は、そのときすでにそこになにかはわからないけれど強い作者の意志が込められていると思っているのである。
『緑の祠』を取り上げている『短歌研究』二〇一四年五月号の作品季評は、穂村弘・花山多佳子・小島なおの三氏が担当している。そこで穂村は以下のように発言している。

ただ、そうすると交換可能に見えちゃうんだよね。あるフレーズが、これでもいいけど、動いて全然違うフレーズもありうるように読めてしまって。それがこれでなくてはいけないのだという感覚をどこから導き出せばいいのか、ちょっとわからないんですよね。

ここで穂村は五島の歌の交換可能性を、否定的な立場から指摘している。一方、座談会の後半では、以下のようにも評価している。

作中に自己の分身を出すと言うよりも、文体や口調、価値観全体にすごくその人の匂いがする。「子供用自転車とてもかわいいね 子供用自転車はよいもの」とか。その人というものを強烈に感じますよね。うっと来るぐらい。

 穂村が五島の短歌にその人=五島の文体や口調、価値観を強烈に感じているのはなぜか。それはまさに五島の短歌には「交換可能に見え」「動いて全然違うフレーズもありうる」部分があると感じているからではないだろうか? 交換可能性を認識しているからこそ「それがこれでなくてはいけない」という必然性を探す必要が生じ、そしてそのどこかにあるはずの必然性を「その人」、すなわち作者があえてこれを選んだという事実に見出したのだ。右で引用されている歌についての穂村の「普通だと、子供用自転車かわいいと提示したらその理由づけをしなくてはという方向に意識が行くけど、それを拒否して下の句で『子供用自転車はよいもの』という。この出し方は生理的であると同時に意図的なものですよね」という評は、そのことを裏付けているだろう。
 他の語や文体でも書けた、むしろそちらのほうが普通だったという交換可能性を読者が認識することは、同時に作者がそれをあえて選択したという事実を認識することでもあり、結果としてその歌には作者性が刻印され、強度が高まるのだ。


午後5時に5キロの米を買いに出てどこかにきみはいないだろうか
栗の花蹴散らしながら行く道のどこかに君はいないだろうか
セロテープで補修したノートのことを覚えていなくてはならない、と
セロテープで補修したノートのことも覚えていなくてはならない、と
最高の被写体という観念にこの写真機は壊れてしまう
見捨ててはいけないという観念にこの写真機は壊れてしまう


『緑の祠』の奇妙な点として、類似したフレーズを持った短歌が収録されていることが挙げられる。特に三首目と四首目などただ助詞一文字・一音の相違点しかないし、その違いが生む意味も確かに読み取りづらい。どんな俳句も「それにつけても金の欲しさよ」をつければ短歌になる、という(俳人歌人も怒らせそうな)冗談は所詮冗談でしかないけれど、しかし一首目・二首目の「どこかにきみ/君はいないだろうか」という下句はあまりに淡く、どんな上句に続けてもそれなりに形になってしまいそうだ。加えて言えば、一首目の「午後5時に5キロの米を」という上句は、このように書かれる必然性が音声面にあることがあまりに露骨であるため、かえって意味の面ではまったく必然性がないように思えてくる。
 このような歌は五島が短歌の交換可能性について極めて自覚的であることの証左ではないか、と私は考えているけれど、先述の作品季評でもこのことについては指摘されており、小島は「何か意図があるのかな」と疑問を発している。しかしこのような型破りなやり口に直面したとき、実際のところ読者が心内に抱く疑問は「どういう意図があるのだろうか」になってはいないだろうか。何の意図もなく、単に作者のミスで見落としただけ、と考える人は少ないだろう。
 ひょっとするとこれらの歌は、読者に短歌の交換可能性を意識させるための、五島からのサインなのかもしれない。


  


 今更だけれどもこの企画*4のテーマは「定型と文体」だ。私はこの評論を定型論としてつもりで書いているつもりで、その論旨は「歌人は短歌を読むときつねに定型を幻視しており、またその読み方を突き詰めることで短歌をよりおもしろく読むことができる」という要約してしまえば穏当であまりおもしろくもないものだ(中途半端に文体のほうにも口を挟んでしまっているあたりに、私の欲張りさと優柔不断さが表れているけれども)。とはいえここまでの議論は、定型の「書かれなかった無数の歌の可能性」といういささか抽象的な側面についてのものに偏った感は否めない。遅まきながら今度は実体的な(という表現もおかしいけれど)定型、つまり五・七・五・七・七の器としての側面について考えてみたい。


 歌人が五・七・五・七・七の器を幻視していることが顕著に表れるのは、破調の歌を読むときだ。言うまでもないが破調という概念は定型が存在するから発生するのであって、破調を認識するためには定型を認識する必要がある。だから「破調」からなにかを読み取ろうとすることは極めて「歌人」的な読み方である。
〈夢らしきものの手前の現実をずっと過ごしているわけだけども〉脇川飛鳥)という歌に対する評で、穂村はいかにも「歌人」らしい読みを披露している。

この結句八音も「いるわけだけど(も)」と「も」の一音をとるだけで定型に収まることになる。では、そのことをもって、この字余りを定型意識の上に成り立つ技法とみなせるだろうか。私にはそうは思えない。この字余りが意識的であることは確かだが、何に対して意識的かと云えば、それは今ここの〈私〉の実感を忠実に再現することに対してのみであろう。ここには定型という「枠組み」を省みた痕跡がないのだ。ただし、この字余りによって実感の再現性は確かに増していると思う。
(文字色は筆者による、以下同様)
(「短歌的武装解除のこと」『短歌の友人』)

 興味深いことに、岡井隆によるかの有名な『現代短歌入門』(この本も本質的には短歌の読み方の入門書だ)においても、同じような指摘がなされている箇所がある。こちらは〈「無名青年の 徒」として歌碑を 建てしもの ひとしく老いて 雪にこもるや〉土岐善麿)への評である。

この第一句の「無名青年の」は八拍であり、三拍の余りということになるが、これは作者土岐善麿の、「無名青年の徒」という言葉への執着が、音数上の約束を犠牲にしてまで、おのれを徹したというかたちであります。字余りのほうがこの際効果的である、などという韻律上の要請から生まれたものではまるきりない。
(『現代短歌入門』第六章「定型について」)

 二つの評はどちらも、破調が作者の定型への技法的な意識(韻律上の要請)から生じているわけではないと指摘している。しかしより興味深いもう一つの共通点は、それにもかかわらず、両者がそれぞれ「『無名青年の徒』という言葉への執着」「今ここの〈私〉の実感を忠実に再現すること」という作者の意志を破調から読み取っていることである。ともに作者に定型への意識、すなわち破調への意識がないことを指摘しているにもかかわらず、なぜその一方でその破調によりにもよって作意を見出そうとするのだろうか。作者が定型を意識していないというのなら、この破調はたまたまそうなってしまったというだけでは済まされないのか?
 穂村の評に明らかであるように、両者は決して作者が定型をまったく意識していない(=破調であると認識していない)と考えているわけではない。指摘の核はあくまで作者が破調にすること自体を目的とし、それを積極的に選択しているわけではないという点にある。つまりこれらの歌でもやはり、定型よりも内容を優先するためという技法的にはいわば消極的な理由であっても、作者があえて破調を採り、定型を退けるという選択を行っていると両者は考えているのである。これらの歌では、それぞれ「『も』の一音をとるだけで定型に収まる」こと、また初句で「三拍の余り」という極端さが、「あえての破調」という印象を強めていると考えられる。
「作者が定型を前提として創作している」ことを前提として短歌を読む読者にとって、原理的にはあらゆる破調が選択の結果であり、そこに何らかの意味を見出すに十分なのだ。そしてそこに技法上の必然性が見えず、かつ回避(=定型に収めること)が可能に思われるとき、どこかになくてはらならない必然性は「定型という器を壊してでもこう書きたい」という作者の強い意志に見出されることになる。これは「書かれているもの」があえて選択されるにあたっての競争相手が無数の「書かれなかったもの」から「そうあるのが普通である」定型に変わっただけで、メカニズム自体は前項までと同じである。競争が厳しいものであったことの根拠が、ライバルの量から質に変わったとも言えるだろう。


 五島の破調の特徴は、定型に(あるいは初句六音や七音など、一般に定型に準ずるものと認められているものに)ほぼ沿った部分と、大規模な破調部分のギャップであり、またその両者が一首のうちに同居することにある。
 このような歌の作りから読者が抱く印象も、やはり「定型に収めることもできたはずだが、あえてそうしていない」というものになるだろう。そういった印象を与えることが破調により強い効果を持たせるのである。


無とは何か想像できないのはぼくの過失だろうか 蝶の羽が汚い
信じることの中にわずかに含まれる信じないこと 蛍光ペンを掴む
くもりびのすべてがここにあつまってくる 鍋つかみ両手に嵌めて待つ
息で指あたためながらやがてくるポリバケツの一際青い夕暮れに憧れる
蝶や黄金虫の羽根が好きだろう肥沃さがあなたのいいとこだろう


 一首目と二首目は類似した構造を持っている。字空け以前の四句まではどちらもほぼ定型に沿っているが、字開け後の結句はどちらも十音と大幅な字余りになっており、また内容面でも四句以前とは断絶している。このような断絶が許されるのならば結句には原理的にはどんなフレーズも存在を許されるはずだ。そうであれば任意の七音を持ってくることは簡単であり、むしろそちらのほうが自然にも思える。しかしそうではなくこのフレーズが使われているのは、なにかこのように書かれなければならなかった必然性、作者にどうしてもこう書かなければならない理由があったからだ……とこの大幅な字余りは読者の思考を誘導する。
 三首目は「くもりびの/すべてがここに/あつまってくる/なべつかみりょう/てにはめてまつ」と読みたい。三句以外は定型に収まっており、また下句では修辞的な句またがりが行われている。そのなかで字余りしている三句は周囲から浮き上がって見える(ただでさえ三句の字余り・字足らずは目立つのだ)。「あつまってくる」ことへの期待感のようなものが高まっていくさまが感じられる。阿波野巧也はこの歌について、「くもりびのすべてがここにあつまって 鍋つかみ両手に嵌めて待つ」という改作と比較し、「定型の五音による滞留を突破することで、そこには新鮮なリズムがあるように思う」と述べている。*5
 四首目は上句が定型に収まっている一方で、下句は二三音もあり、完全に定型から逸脱している。分割するならば「ぽりばけつの/ひときわあおい/ゆうぐれにあこがれる」と三つの句に分けることが妥当だろうか。いずれにせよ、上句が定型であることに油断していた読者は下句で急加速を強いられるし、ここまで長ければどんなに加速しても定型のタイムリミットには間に合わない。それがなにかはまったくわからないけれど、なにか切迫感やあふれ出すようなものがなければこんなふうには書かない/書かれないだろう、と思う。
 五首目は私が特に好きな歌だ。初句・二句では「ちょうやこが/ねむしのはねが」という名詞の途中での句またがりによる韻律への違和感が、かすかな気味の悪さを残す。それに対して「肥沃さ」という通常土地などに対して用いられる、生物に対しては使わないしましてその価値になるはずもない概念を、人間であるだろう「あなた」に対して用いている四句の、その伸びやかな字余りからはほんとうに「肥沃」な感じがして、「いいとこ」というくだけた表現に相応しい「あなた」への肯定が感じられる。


  


 短歌入門書をあれこれとつまみ食いしたり、かと思えば『緑の祠』について論じたり、気がつくとなんともまとまりのない評論になってしまった。どう締めくくればよいのだろうか。
 この評論を書くためにいくつかの『緑の祠』論を読み直して気がついたことは、それらの間で相互に類似したキーワードが提示されていたことだ。堂園昌彦「世界の多層化とそこで働く意志について」であればタイトル通り「世界の多層化」という複雑性と「そこで働く意志」という五島の選択の存在が、石川美南「世界との距離――五島諭の変遷」では(二〇〇八年以降の)五島の歌が「未来の不確実性をあっさりと口にする」点と、また「「彼」はためらいながらも、引く方を選ぶ」*6と、こちらもやはり五島が選択を行うことが指摘されている。すでに引用した永井の評論では、五島の歌の「可能性の提示」という要素が、永井が筒井康隆を引用しつつ提唱する「超虚構短歌」という概念に繋がると論じられている。
 堂園と石川の評論が同じ同人誌に掲載されており、永井が二人の評論を参照したことを明言している以上、共通点があるのは当然かもしれない。しかし「可能性」≒「不確実性」や「選択」というキーワードに興味を引かれる。これらの評論における「可能性」や「選択」はもっぱら内容面についての批評に発しているキーワードであるし、分析されている歌は必ずしも私の評論のそれと重ならない。それでもこの性質は、語や韻律の交換「可能性」が強調され、そのなかから一つを「選択」されていることが見えるために強度が高まっている、という論じてきた五島の歌の特徴と通底しているように思える。
 この評論で扱った歌は、五島の歌のなかでも特に「わからない」と言われがちなタイプの歌ではないかと思うけれども、この評論が五島の歌を少しでも「わかる」ための一助になれば嬉しい。短歌であれ何であれ芸術を「わかる」必要なんて別にないと思うけれども、「わからない」という感覚がその作品を鑑賞する上でなにかの妨げになるのだとしたら、「わかる」と感じられたほうがよいだろう。


 この評論で分析した読み方についてはもっぱら「歌人」を主語にしてきたけれども、もちろんアンケートを取ったわけでもないので正直に言ってしまえばこれが多くの歌人に受け入れられるものかは分からない。「歌人」らしい読み方を論理的に突き詰めれば少なくとも一つの帰結点はここにあると私は信じるが、個々の歌人の実感には当然異なるものもあるだろう。結局のところ私も個人的な読み方を開陳しただけであって、この評論も私なりの短い「短歌入門」なのかもしれない。とはいえそれならば「短歌入門」として力不足でないこと、どこかで普遍性に通じ、他者を挑発する力を持っていることを祈りたい。
 ところで、この評論ではここまで意図的にある可能性を無視してきた(注で少しだけ言及したけれども)ことを告白しなければならない。「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」というメカニズムを成立させるためには、そうする必要があったからだ。
 ふたたび『誰にもわからない短歌入門』に戻りたい。今度はゲストである石井僚一の一首評を取り上げる。石井は鈴木の〈総工費六億円の橋がありそれをふたりは並んで渡る〉という歌に対して以下のような批評を行っている。

この歌には特別な修辞がない。比喩も倒置も句切れも何もない。破調もなく歌はきれいに五七五七七だ。「橋があり」という三句目が短歌らしいといえば短歌らしい言葉の使い方だが、これも口語短歌ではよくある言葉の繋ぎ方でまったく工夫がない。この歌からは短歌らしい情感が何も生まれてはこない。
(中略)
この歌の作者は鈴木ちはねという人だけれども、この歌で言葉を定型に収めることができている以上、最低限の知能はあるはずだ。だから、この歌の文体の選択にもきっと何らかの意思がある。

 作者が発行人の片割れである本にこんなことを書くのだからまったく人を食ったような態度だけれども、ここには「歌人」の読みの転倒が典型的なかたちで表れている。「まったく工夫がな」く、「短歌らしい情感が何も生まれてはこない」歌を目の前にして、そうであるにもかかわらずこう書かれている以上きっと作者が「何らかの意思」をもってこの文体を選択していると推測する。この評論で私が展開してきたものと同じ読み方だろう。
 このように推測するにあたって、石井は作者が「最低限の知能」を持っていて、その気になれば詩的修辞を活用し、いかにも「短歌らしい情感」が生まれてくるように書けるということを前提としている。この前提はすなわち、いま読んでいる歌がこのような奇妙な形をしている理由を考察するにあたって、単に作者の選択が失敗に終わっている、作者が下手であるという可能性をひとまず無視するということである。つまり「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」というメカニズムは、作者に対する信頼があってはじめて成立するのだ。


「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」を頻繁に感じる私の意識の根底にあるものは、ある程度短歌を読みまた作ってきた実作者であれば、その気になれば「わかりやすく」「短歌らしく」書くことは可能であり、むしろそのほうが簡単なのだ、という認識だ。これが乱暴な断定で、それこそ作者を盲信しすぎだということはわかっている。短歌という文学がほんとうにそんなに簡単な、底の浅いものだとしたらとっくに滅びているだろう。それは困る。
 それでも私は少なくとも一度は、どんな歌にもそう思って向き合ってみたい。もしも作者がそういった領域に勝負をかけているとしたら、それをこちらの先入観で見落としてしまうのは失礼だし、とても勿体ないと思うからだ。
 定型というステージの上でだけ使える、何の変哲もない一つの「書かれているもの」を無数の「書かれなかったもの」を倒してきた唯一無二のヒーローや、あるいは強大な定型そのものを壊してしまったモンスターに変身させる魔法。そんなものがあるとしたら、まさに定型の恩寵、短歌の可能性と言うべきではないだろうか? そしてその魔法は、作者と読者の協力によってはじめて発動する。作者が定型を信じる心と、読者が作者を信じる心の両方が必要なのだ。だったら私は、とりあえず作者を信じてみたい。魔法にかかってみたいからだ。魔法が発動せず、ただの詐欺だとわかったら、そのときは遠慮なく文句を言えばいい。



参考文献
阿波野巧也(2015)『口語にとって韻律とはなにか――『短詩型文学論』を再読する――」、『京大短歌』21、京大短歌
石川美南(2014)「世界との距離――五島諭の変遷」、『pool』8、pool
岡井隆(1995)『短詩型文学論集成』(『岡井隆コレクション』2)、思潮社
五島諭(2013)『緑の祠』、書肆侃侃房
堂園昌彦(2014)「世界の多層化とそこで働く意志について」、『pool』8、pool
永井亘(2015)「超虚構短歌への冒険 ――『緑の祠』を中心に」、『早稲田短歌』44、早稲田短歌会
穂村弘(2011)『短歌の友人』 、河出書房新社河出文庫
――(2013)『短歌という爆弾』、小学館小学館文庫)
穂村弘・花山多佳子・小島なお(2014)「作品季評」、『短歌研究』二〇一四年五月号、短歌研究社
三上春海・鈴木ちはね他(2015)『誰にもわからない短歌入門』、稀風社

*1:つまりそのスキルを知っていれば「歌人」でなくともそうやって読むことが可能であり、そして穂村はこのような評論を書くことでそのスキルを公開している……と考えることで、穂村は排他的という謗りを免れるだろう。

*2:永井亘(2015)「超虚構短歌への冒険 ―『緑の祠』を中心に」、『早稲田短歌』44、早稲田短歌会、141p

*3:この「あまりに」が重要であるのは、その露骨さが作者が「あえて」やっているということのサインとして機能するからだ。中途半端にしか「語が動く」、交換可能性が見えなければ、それは単に作者が下手であるがゆえの失敗と切り捨てられてしまう。

*4:『羽根と根』4号でのもの。本企画は阿波野巧也の提案により、ゲストとしてフラワーしげる氏、千種創一氏にご寄稿いただいた。

*5:阿波野巧也(2015)『口語にとって韻律とはなにか――『短詩型文学論』を再読する――」、『京大短歌』21、京大短歌、139p

*6:(詞書:鶴岡八幡宮〈大吉を引けばいいけど引かないと寂しさが尾を引く、でも引くよ〉 を引用している。

一ノ瀬志希、宮本フレデリカ『クレイジークレイジー』、あるいはMCTCの歌詞について

 

 

utaten.com

 作詞:BNSI(MCTC)
 作曲・編曲:BNSI(Taku Inoue)

 サウンドが最高なのは自明なので歌詞の話をします。
「ラストのI love you」を最初に言うというのは明らかに「ありきたりなロマンス」の骨法を破っているし、その後「壊れそうなキスしたまま映画が終わる」ときたら、そんな映画はショートフィルムとしてすら成立することは困難だろう。フィクションの公式というのが要するにひとびとの了解で成り立っている以上、そこは社会的に承認される欲望の範囲でもあって、その極限を踏み越えて愛の告白をを最初にしてしまう存在は、「クレイジー」という指弾を免れることはできない。「きみと空飛びたい」にしても。
 だからこの曲を激しい感情によるものにしろ、あるいは生来のものにしろ、凡人の道理を外れてしまった人間の悲哀ならびにそのうつくしさ、と捉えることは簡単だし、作中世界においては、歌唱者二人のイメージからしても、そういった方向性で説得力を発揮していそうな気はする。*1けれどもメタな立場にいる人間としては、その手の見方には抵抗したいとも思っていて、この曲からそれなりに多くの人が引き出すだろう「百合」というモチーフ(まあ「女性」が二人で恋愛の歌を歌っているからすなわち「女性同性愛」だ、という順接も相当に危ういと思うが、我ながら)がまさにそうなりがちであるように、タブーであるから美しい=承認されるためにはタブーであり続けることを要求される、という構図は端的に言って残酷だし、非道だ。たとえギフテッドだろうとサイコパスだろうと、どんな欲望を抱いていようと、それのみをもって断罪されるべきではない。

走るヒーロー

優しくて勇敢で素敵なんだ

きみの方がね

を私は「素敵なんだ」のみが「きみの方がね」にかかっていると読んでいるけれど、いかにも社会的に「素敵」とされる理由がたくさんあり、そもそも自明に素敵な存在として承認されている「ヒーロー」よりも、無冠の「君」のほうが素敵なことだってありうるし、そこには何の理由もなくたってよいのだ、この曲での展開の唐突さのように(しかしここの急旋回、ドライブ感は何度聴いてもすごい)。


 MCTC氏の歌詞は「旅に出がち」「何かを探しがち」「今夜がち」と作曲家兼専属マネージャーのTaku Inoue氏も指摘している。*2他の頻出語の「宇宙」「星」と合わせ、「ここではない場所への憧れ」というモチーフがこのあたりの語に象徴されているのだと思う。
 とはいえワンパターンかというとそんなことはない。定番「ユー・アー・リスニング・トゥ・レディオ・ハッピー」(『Radio Happy』)や「世界はもうぼくらのもの」な『そしてぼくらは旅に出る』、極めつきは「どんな永遠も全部過去にして君を連れ出してあげる」(『Light Year Song』)とまで言い放つユーフォリックな歌群もあれば、「君がもしその手を離したら/すぐにいなくなるから /手錠の鍵を探して 捕まえて」「流れ星を捕まえて この足に縛ってよ」と、まるでお互いを自分だけのものにするためだけに宇宙を求めるかのような『Hotel Moonside』、「明日にならないパーティー ある気がしてた」けれど「もうタイムアップ 朝だから」挫折する『99 nights』(美希のソロが最高)、そして「ここ」にいたまま「ここ」の住人ではなくなってしまう『クレイジークレイジー』。
 ときに曲全体でのストーリーの構築に寄りながら、そういった場合でも細部のフレーズにもキャッチ―さやかがやきがちゃんとあって、決して全体に奉仕するものにとどまっていないところもよい。『Honey Heartbeat』をカーセックスの歌だと思おうとそれが叶わず失恋したと受け止めようと、「今何時? んー0時かあ/シンデレラはベッドで寝る時間/だけど3つ数えてヒミツ作ろう」の怪しさや「シート倒したらねえ、you see?/Gimme君のAtoZ」の格好良さに変わりはないし。*3
 今更言うまでもないけれど韻もキレキレだし。個人的には「サーフボードの上 真夏の夜の夢」「眠るハイビスカス 愛に気付かず/君の手まで果てしないディスタンス」(Pon de Beach)が最高だと思います。

*1:あくまで歌唱者というバイアスがかかったときこの曲がどう受け止められるかの話であり、歌唱者=志希・フレデリカがどういう存在だと思われているか、どういう存在か、ではない

*2:https://twitter.com/ino_tac/status/1057641560559431680
https://twitter.com/ino_tac/status/1057641705158000640

*3:しかしおそらくMCTC初登場でTaku Inoueが関わっていないこの曲の歌詞が一番はっちゃけている気がする。またこういうの(性的なものという意味ではない)書いて欲しい

木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』

 

 

 面白かった。書籍のタイトルに掲げられているのは「新反動主義」だけれど、最終章のタイトルである「加速主義」のほうが読みどころだし、語としても意味を想像しやすくキャッチ―だと思う。(新反動主義者/右派加速主義者が敵視するような)「リベラル民主主義的な〈カテドラル〉のイデオロギー」の信奉者に対しては「反動」という単語が挑発的、刺激的だから、という判断からだろうか。そうだとしてもその層がどれほどこの手の本を買うかは疑わしい気がするけれど。

 

 1章・2章の新反動主義のあたりはどちらかというと現代の政治をどうにかしよう、あるいはどうにかするよりそこから脱出しようという話で、しかしその割に実現性が乏しく感じられて(トランプだって新反動主義的政策はとってないじゃん)、勉強にはなるけれどそんなに面白くはない。一部アメリカ人は本当に無条件に自由が好きだなあ、という雑な印象。大きな政府福祉国家が自由を制限するから駄目と言われても、私は超人になってまでサヴァイブしたくないし、国家をうまいこと利用してだらだらやっていきたいと思ってしまう。新反動主義者にはそういうやつを生むから福祉国家は駄目なんだ、と言われそうだが。
 3章は加速主義に至るまでのニック・ランドとその周辺の紹介。ランドやその周りの人間がめちゃくちゃなことをやりまくっているのが単純に面白い。

睡眠を取らず、使い古したアムストラッド社製のパソコンのモニターを一日中凝視しながら、奇怪な数字の配列やシンボルをを延々といじくりまわしていた。この時期のランドの実験にはたとえば、QWERTYキーボードとカバラ数秘学を組み合わせるというものがあった。人間的な理性を超越した非-意味に基づくアンチ・システムだけが〈未知〉=〈外部〉への扉であるという確信。

とか、よく即刻大学クビにならなかったな。
 あまり本筋というわけではないけれど、ランドが初期に戦闘的フェミニズム(筆者も指摘しているように具体性を欠いているが、「我々は自身の只中に新たなアマゾーンを育てなければならない」という文から大まかなニュアンスは推測できそう)に可能性を見出していた点や、サイバー・フェミニズムと接続していた点は興味深い。とはいえ後にその主題が後景に退いていったという記述を見ると、結局(乱暴に言えば)「現状を破壊してくれる道具」として期待していただけでは? という気もしてしまう。
  章末で少しだけ言及されている中華未来主義も興味深い。サイバーパンクを現実に投影したうえで、それを本気でユートピア(厳密にはそこへの回路だろうが)として見る態度。これは日本からは出てこないだろうなあ、と思う。単純な嫌中感情の問題だけではなく、そもそも日本もまた「〈カテドラル〉のイデオロギー」が欧米ほど根付いていないという意味で。

 

 4章、問題の加速主語の話は、個人的には未来派にもロシア宇宙主義にも多少馴染みがあることもあってか*1、また極限状況において決定的な変革が起こる(し、そうでなければ起こりえない)という発想もマルクスにしろ外山恒一にしろ当然のものだし、それほど突飛にもダークな思想とも感じられなかった。とはいえシンギュラリティ状況における変革のビジョンは、負荷に耐えられなくなった人々のエネルギーが起こす/後押しするというものではないから、安易に『共産党宣言』を援用するのはどうなのかと思う。それよりは未来派における戦争に近いのだろうけど、第一次世界大戦未来派の期待したような変革を果たして起こしたのか、あるいはシンギュラリティが到来するとして、それは世界大戦/総力戦ほどの衝迫力を人々に大して持つのか*2、などと考えると怪しげ。
 いちばん万人向け? だと思ったのは資本主義リアリズムの話。「哲学者スラヴォイ・ジジェクのものとされる『資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい』というフレーズ」は私の乏しいジジェク知識でもいかにも言いそうだと思うが、まあこの書き方からして出典が怪しいのだろう。ともかく言われていること自体は非常に納得できる。「大きな物語の終焉」などというのはもはや手垢がつきすぎた表現だけど、少なくとも西側諸国において崩壊したのは「資本主義という現実に対抗するビジョンとしての大きな物語」であって、資本主義(ついでに民主主義も)という物語はまるで終焉なんてしていない。「資本主義が人々に幸福をもたらす」ということがもはや信じられなくなったとしても、それは資本主義という物語が「絶望の物語」に変わっただけで、崩壊したわけではない。共産主義ユートピアを提示するものとして受け止められていたから、人々に幸福をもたらすと信じられなくなった時点で崩壊せざるを得ない。しかし資本主義はむしろそのユートピアに対してシニカルな、「現実的」な立場に支えられている*3のだから、たとえそれが幸福をもたらすことがないとしても「現実は難しい」「文句があるなら代案を出せ」で片付けられてしまう。「資本主義の問題は、それが機能不全でありながらも現実に機能してしまう点にこそある」というのは、まさに、といったところ。資本主義リアリズムについては本書で言及されているマーク・フィッシャーの書籍が邦訳されている(上の怪しいジジェクの引用もフィッシャーのものだという)のでいずれ読んでみたい。

 

資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

  • 作者: マークフィッシャー,セバスチャンブロイ,河南瑠莉
  • 出版社/メーカー: 堀之内出版
  • 発売日: 2018/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログ (2件) を見る
 

 
 加速主義という新たなユートピア思想が「大学院生の病」であるという指摘は最近まで院生の端くれだったものとして正直笑ってしまうが、「加速主義は鬱病に効く」と言われると切実にも感じる。同じ加速主義でも前者は右派、後者は左派についての言葉だけれど、まあ大学院生がメンタルをやられやすい立場であるのはたぶん事実だ。
 個人的にはトランスヒューマン/シンギュラリティよりは宇宙進出に希望を見出したい。マインド・アップローディングしたところでそのコンピュータを地球にしか置けないのなら地球が吹っ飛んだらおしまいじゃん? どうせトランスヒューマンするなら宇宙(移住先)に適応しようよ。「広がって、地に満ちよ」(Key『rewrite』)。

 

 終盤のヴェイパーウェイヴをはじめとする音楽の話はこれだけでもう一章欲しいくらい。ちょうど最近訳あってヴェイパーウェイヴをちょっと聴いていたのだけれど、参考にしたものの一つが同じ筆者のこの記事だった。本書の記述ともかなり共通している。それがそのまま右派加速主義者/オルタナ右翼と重なるかはともかく(ヴェイパーウェイヴの主流はランドよりもむしろ、上述のマーク・フィッシャーの左派加速主義のビジョンに重なると筆者は指摘している)、いわゆる「レトロな」、過去においてありふれていた音楽、文化に惹かれる欲望の裏に、未来への絶望があるというのは綺麗すぎるほどに筋が通った理屈だ。日本のシティポップが海外で流行っているという「日本スゴイ」的文脈に回収されている現象も、以下のような理由があると考えるとかなり皮肉だ。

もはや、アメリカの若い世代は自分たちの過去の記憶に純粋なノスタルジアを感じることができなくなっている。その代わり、日本という他者――自分たちが経験したものではない時代と場所の記憶に、ある種の新鮮で穢れていないノスタルジアを求めているのだという。シティポップの全盛期である80年代といえば、日本はバブル景気に湧き、アメリカには安価な日本製品が大量に流入してくるなど、日本のプレゼンスが否応にも高まっていた時期に当たる。

スゴイのは過去の、それこそアメリカすら圧迫するレベルで資本主義が人々に幸福をもたらすと信じることができていた日本であり、今の日本ではない。「中華未来主義」だって「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が取って代わられたものとも言えるし。
 私はいわゆるミレニアル世代に属していて、シティポップ(的なもの)はわりと好きだけれど、その時代に郷愁を抱いているつもりはない。男女雇用機会均等法もなかった時代が今よりマシとは思えないし。とはいえ未来に希望を抱いているかと問われれば答えに窮する(いや答え自体はほとんど決まっているけれど、だからこそ窮するのだ)し、本書のラストで引用されているティールの発言には思わずうなずいてしまう。

「たとえトランプに懐古趣味や過去へ戻ろうとする側面があったとしても多くの人々は未来的だった過去へ戻りたいと思っているのではないでしょうか。『宇宙家族ジェットソン』、『スター・トレック』、それらは確かに古い。だけどそこには未来がありました」。

スター・トレック』はティプトリー・Jr.「ビームしておくれ、ふるさとへ」でしか知らないけれど。

 

 

 私がどうしてもアンチ星海社なことを差し引いても*4、デザインは正直ダサいと思う。本当は参考文献以降のような黒地に白抜き文字に全篇したかったのを妥協したのかなと邪推。

*1:カントやベルクソンに??? となっていたのに、マリネッティやフョードロフやソロヴィヨフで「あ!これ進研ゼミでやったやつだ!」となるのも我ながらどうかと思うが

*2:衝撃を与える人間の数、あるいは全人類のうちの割合は当然WWⅠをはるかに上回るだろうけれど、反面WWⅠほど突然起きたものとしては感じられないのではないか

*3:もちろん理念としての自由を信奉している人もいるだろうけど、「共産主義は結局みんなが貧しくなるだけ」という見方から消極的に資本主義を支えている力はとても強いと思う

*4:牧村朝子『百合のリアル』や原田実『江戸しぐさの正体』のような良書も出しているとはいえ、倫理的に許しがたい本や看板に偽りありの本や編集やる気あんのかという本の印象が悪すぎる。大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた』とか、期待してたのに……。

自分のルーツの話

 前の記事のような話をするとじゃあお前のルーツはどこなんだ、お前はなに歌人なんだ、名乗れ、と言われるかもしれないけれど、これがなかなか答えづらい。
 小学生のときはそれなりに読書家だったけれど、中高の在学中はろくに本を読んでいない。映画や演劇を自発的に観たことはたぶん一度もないし、美術館に行くこともなかった。アニメはオープニングしか観ず、ゲームやポップ・ミュージックの摂取量も同世代の平均を大きく下回るだろう。吹奏楽部に入っていたとはいえ、その練習態度はだいぶ面の皮の厚い私でも今思うと少々赤面しそうになるほど不真面目だったし、それが血肉になっている気はまったくしない。そもそも私にいわゆる自我のようなものが芽生えたのは高校をやめた後のことだから、それより前の経験が反映されている可能性は低そうだ。

 結局のところ、私はいかにも無用な混乱を招きそうであっても、この肩書を名乗らないといけないのかもしれない。すなわち、「インターネット歌人」だ。今使われている「ネット歌人」という語の暗黙的定義には当てはまらないだろうし、繰り返しになるが混乱を招くだけだろうから敢えて主張することはないけれど。それなりに公的なプロフィールを書くときは、大学短歌会で作歌をはじめる、と書いているし、実際まともな作品を作るようになったのはそれ以降だから間違いではない。
 とはいえ私が短歌に興味を持ったきっかけはたまたまTwitterでフォローしていた人たち(奇しくも、と言うべきか、現在では稀風社の同人としていわゆる伝統的な歌壇にも接続している@suzuchiu@kmhr_tだ)がツイートしていた短歌なのだから、私は自分のことをやっぱり「インターネット歌人」だと思っている。
 初めて買った歌集は遠野サンフェイスというTwittererの『ビューティフルカーム』だった。リンクを張ったのは電子版だが、物理版は表に短歌、裏に写真が(あるいは逆かもしれないが)が印刷された紙たちを単語カードのようにリングで留めた洒落たもので、まだ蒲田でやっていた文学フリマで私はそれを手に入れた。

bunfree.net


 当時のカタログを確認すると、伝統的歌壇と接続している、その後私が関わることになるような人たち、先輩たちも出店していたことが分かる。しかしその比率はまだ低く、短歌島自体が今と比べるとかなり小規模だ。そのあたりのことはまた記事にして考えてみたい。

 

 だいぶ話が逸れたけれど、私が自身のことを「インターネット歌人」だと思っているのは、単にそこで短歌に興味を持ったからというだけでなく、他の歌人にとっての第一表現形式にあたるものが、私にとってはインターネットという、そこにいる人たちが送る人生や生産する文字情報というコンテンツだったように思うからだ。正確にはインターネットのうち、TwitterというSNSの片隅の中退者や不登校や、ナーバスな高校生や浪人生や、うだうだしている大学生や院生や若干の社会人(便宜上の表現)たち、彼女ら彼らのしていたツイートが、おそらく私の短歌のルーツにある。
 今となっては多くはハンドルネームも覚えていない、生きているのか死んでいるのかも分からない、何人かは死んだということをツイートで当時知らされたひとびととの馴れあい(大抵はTwitter、たまにSkype、オフ会)が唯一の対人コミュニケーションだった時期は、社会的に見れば私の人生で最低の時期だろうし、医学的に見ても最悪の精神状態だったことは間違いない。けれども語弊を恐れずに言えば、私はそのどうしようもなさを楽しんでいたし、それまでの人生のもろもろの経験よりもはるかに意味のあることに感じていた(自我も手に入れたし)。そしてそこから去ることを残念に感じたし、去ったことそのものと残念に感じたことの双方に傲慢な罪悪感を今でも覚えている。他はともかく、私のような中退者や不登校のうち、社会的にそれなりに認められる場(要は偏差値の高い大学だ)に移行することで去れたものはそれほど多くなかったかもしれないし、私がそうできたのは努力の成果などではなく、嫌になってやめたはずの学校で叩きこまれていた受験テクニックのおかげにすぎない。
 飽き性な私がなんだかんだ長い間短歌をやっているのは、他人から見れば何も得ることがなかったと言われそうなあの時期に、得たものがある、ということを主張し続けたい面もあるのかもしれない。作品への実際的な影響は、大学以降に短歌の世界やそれ以外の世界で知り合った人たちからのものがほとんどで、その交流はまっとうに楽しかったけれど、それだけで私の短歌を塗りつぶしたくない。わざわざこんな文章を書いてしまうくらいには。まあそもそも私のとっての短歌は自己表現というわけではあまりないけれど。

 

 偶然に入学した大学の短歌会に入って、短歌を作っている生身の人間と初めて会ったとき、今どき短歌なんてやっている若者は全員Twitterがきっかけだろうと思っていた。実際はぜんぜんそんなことはなく、寺山修司俵万智穂村弘枡野浩一の本や、教科書がきっかけだという人が多かった。私は『ラインマーカーズ』が通っていた精神科の待合室にあったから読んだだけで、ISBNコードがついた短歌の本は他に一切知らなかった。教科書なんて中学以降は開いたこともないから、誰の短歌が乗っていたかという質問にも答えようがない。
 入学後一年近くが経ちだいぶ社会にも慣れたころ、はじめての機関誌に一首評を書くことになり、私は『ビューティフルカーム』のいちばん好きだった歌を選んだ。ネット公開されているそれを今読むといかにもロマンチック・ラブ脳という感じで恥ずかしいが、とにかく人生ではじめて発表することを意識して書いた散文だった。
 短歌会では一首評/評論で扱った作品の著者が存命である場合はその評者が挨拶状を書いた上で謹呈し、送付先が分からない場合は自ら連絡を取って確認することになっていた。遠野サンフェイス氏はもちろん短歌年鑑の住所録には載っていないし、結婚した(もちろんツイートによれば、だ)とかでそれ以降ほとんどツイートしなくなっていた。当時はDMをフォロワー外から受け取るなんて設定もなかった。住所を聞くのも、謹呈文化も、勝手に書いたものを読んでくれとでも言わんばかりの行動も、いかにもこじらせインターネット界の文化が分からない健康な大学生みたいで嫌だったから、結局連絡を取ることはなく、たぶんあの年は私だけが謹呈をしていない。

歌人のルーツの話

 現代において短歌という表現形式はかなりマイナーだけれども、それゆえに生じているちょっと面白い特徴は、短歌はそれが「第一表現形式」である作者の比率が極めて低い形式であることではないだろうか。「第一表現形式」というのは「第一言語」という概念を援用した造語だが、狭義の創作でも演奏のような再解釈行為でも、あるいは単にひたすら耽溺していただけであってもいいから、幼少期から特に慣れ親しんできた、というくらいに捉えてほしい。
 たとえば小説や漫画や音楽であれば、幼いころからそれに親しんできた末に自分でも創作するようになった、という人は多いだろう。映画や演劇やアニメとなるとあまり小さいころからというわけにはいかないかもしれないが、いつかはその作者になろうと心に決めている、ということもありそうだ。しかし短歌となると、子どものころからひたすら短歌を読みふけってきてそのまま歌人になった、という例はかなり希ではないか。例外としてありえそうなのが親(あるいは親族)が歌人であるいわゆる二世、三世歌人だけれども、インタビューなどを見ると彼女ら彼らですら必ずしも幼いころから短歌に親しんでいたというわけでもないらしい。
 加えて短歌を作るハードルは他のほとんどの形式に比べて低い。自由詩ほど長く書かなくてもよいし、俳句みたいに季語を覚えなくてもよいし(どちらのジャンルも第一表現形式としている人の数は短歌より多そうだが)。若者の表現行為などというのはたいていは「俺の歌を聴け」的な欲求に裏打ちされているものだとすれば、それを実現するためには俳句より短歌のほうがいろいろと手っ取り早そう、というのもあるかもしれない。
 その結果として短歌の世界は、漫画やアニメや演劇や写真やガラス細工やロックやヒップホップや小説(は大勢力だろうから日本文学/海外文学/ミステリ/SFなどと細分化できるかもしれない)や、とにかくありとあらゆる表現形式にルーツをもつ作者たちの坩堝となっている。あるいはサラダボウルかもしれないが。そして漫画歌人やアニメ歌人や演劇歌人や…(中略)…たちのルーツは、狭義の創作行為をしていたか否かに関わらず、その短歌作品にどこかで反映されているような気がする。