良い旅を

岐阜亮司「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」をめぐって

note.mu


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「ブログに還れ」を提唱する*1私は、他者が自分の語りたいものについてまとまったかたちで語ってほしいと思っているので、こういう記事が読めると嬉しくなる。
 本来はまず元の評論についてちゃんと言及すべきなのだろうけれど、ここでは元評論へのTwitterでの反応に対して書かれた(と思われる)補足に興味深いトピックがいくつかあったので、こちらを中心に書くことをお許しいただきたい。

実績と評価・報酬

 「実績」や「評価・報酬」が何を指しているのか最初わかりづらかったけれど、後の文脈から考えると、実績=優れた成果(ここでは短歌作品・評論)、評価・報酬=その成果に対する反応・言及、ということだろうか。「『短歌をやめないでほしい』と伝えてしまうことの暴力性」を自覚した上で、それでも「これからも面白い文章・作品を読みたい」からやめないでほしい、と欲望してしまう作者に出会うことで葛藤が起こるのはとてもよくわかるし、その結果として元評論のような文章が書かれるというのも納得がいく。「勝手に『短歌』を共犯者にしてしまった」という点は、私としては特段問題があるとは思わなかった。そもそも青松さんが短歌をやめたら「短歌にとって思ったよりも凄い損失になってしまう」と本気で思っているからああいう文章を書いたのでしょう? 「短歌」を共犯者にすることと、「短歌」のために罪を犯すことは違うし、この評論をどちらかに分類するなら後者だと思う。


 「評価」→「報酬」という比喩には直感的に反感を抱いた。その理由を言語化するなら、評価を量的なものとして捉えている感触や、あるいは自分が報酬だと思える評価(反応・言及)しか評価と認めないのでは? という疑念を抱いたから、というあたりか。一方で、冒頭で述べたように私はブログやnoteで書かれる短歌についてのまとまった文章が好きで、そういったものを読んだらなるべく反応するように心がけている*2。そこには書いてくれたことへの感謝と、次も書いてもらうためのモチベーションになればという下心があるが、そういった意識の総合として「報酬」を与えている*3、という喩はしっくりきた。
 また、これは引用する水沼朔太郎さんのツイートで言われていることのほぼ焼き直しだけれど、岐阜さんの論はある読者が作者に対する評価を、している/していないの二元論的に捉えすぎなのではないか? と思う。



 自分のやめてほしくない人間はもしかしたらやめてしまうかもしれない、という恐れがあり、かつそれを防ぐために他者の評価が役に立つ可能性が少しでもあると思うとき、もっと評価=反応・言及が増えることを望む、そのために隗より始める、というのは誠実なやり方だと思う。
 しかし「(筆者註:青松を)評価している人間が潜在的にはいる」という前提に立っても、それこそ岐阜さんのようにすごく評価している読者もいれば、ある程度評価している、面白いと思っているが、仮に青松さんが短歌をやめてしまってもどうしようもなく悲しくはないし短歌(界)にとって決定的な損失だとも思わない読者もいるだろう。そしてたぶんほとんどの読者にとっては、前者のカテゴリーに入る作者よりも後者に入るそれのほうがずっと多い。ある作者が「ある程度評価している」多くの作者のうちの一人でしかない読者に、他人が評価の表明、報酬を与えることを求めるのはまあ無理筋だし、それをしないのは怠慢だ、そのせいであの人が短歌をやめてしまうかもしれない、などと言われても、それならやめてもらって結構、嫌な言い方をすれば、報酬を与えられなければやめてしまうようなやつはやめちまえ、と返されるだけなのではないか。岐阜さん自身が言う「短歌をやめたいひとはやめた方がいい」というのはまったく正論なのだから。


 個人的には「若手」=歌歴のあまり長くない人に対する、特に作家論的な評価には抵抗を感じる部分もある。まだ自分のスタイルを確立していない作者が、ともすればその評価を内面化してしまい、結果として可能性を狭めてしまうことを恐れるからだ。どれほど自覚的にかはさておき、評価されたように書こうとする、自己模倣に陥る、など。それは作者を馬鹿にしすぎている、というのはもっともだ。しかし一方で「若手」はまさに「報酬」を与えられることが少ないので、数少ないそれを必要以上にありがたがってしまう、ということは有り得ないとは言えないのではないかと思う。少なくとも私にはその経験がある。



 昔ツイートしてた。


権力について

 一般論として、事実権力関係が存在する状況で*4、「すべては平等である(べき)」という論を強調することは、結果として権力関係の隠蔽、保全につながる。そして例示をそのまま引けば、「次席」と「歌集」を持つものが、その両者とも持たない人よりも相対的に強い権力を有する場合は、そうでない場合よりも多いだろう。一方で、歌壇*5全体のなかでの権力、立ち位置がどれほどか、というのはまた別の問題でもある。
 これはややもすればより権力のある人間によるマンスプレイニング的*6行為、卑俗な言い方をすれば「老害」的振舞いと取られるかもしれないけれど、学生短歌会の現役世代の人と話していると、すぐ上の世代(24-30歳くらい?)の、特に学生短歌会出身の歌人の権力・影響力・認知度を過大評価しすぎでは? と思うことがある。新しく登場した・しつつある歌人について、おそらくは歌壇の大方よりも敏感だと思われるあなた(たち)は、昨年の新人賞や第一歌集をいくつ覚えていますか? 新人賞や歌集という極めて分かりやすい「実績」を挙げた後に注目される作者は、結局のところその前から注目されていた人だけである、という世知辛い状況があると思っているので、賞や歌集を「『歌壇』に発掘されている」ことの根拠にするのは、やや雑な物言いかなと感じた。
 ついでに評価・報酬に絡めた話をすると、私がこの3年以内に発表した短歌作品・評論のうち、Twitter上で片手の指を超える言及を観測できた*7のは、『歴史について』(それも機関誌への初出時とブログ公開時を合わせて)だけだった。賞や歌集の実績があるわけでもない私は文脈から外れるけれど(別に皮肉ではない)、まあもしかしたら多少は有名に見えるかもしれない私でも、得ている「報酬」はこの程度ですよ、という例として。自分に対する評価なんてものは公開されないのが普通だと思っておいたほうがいい、なんていうふうに態度にまで口を出すと、ますます鬱陶しい先輩になってしまいますが。

青松輝の作品について

短歌、これくらいでいいですか?こっちも忙しいんで……
おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃって生きてたらはちゃめちゃに光ってる夏の海
青松輝「フィクサー」『第三滑走路』7号


元評論の冒頭に引かれているこの歌について以下のツイートをして、青松さんからリプライをいただいた。


 この歌を読んで、まさに「ツッコミ待ちの歌」だと思い、それならキツいポーズの言葉でツッコんでもいいだろう、と最初のツイートをした。
 その上で言えば、私はツッコミ待ち、おふざけとしても面白いと思わず、イラっときた、というのは正直なところある。詞書は字義通りに受け取ればやっぱりナメているし、歌と合わせて読んでも、ナメてるというポーズ=ツッコミ待ちの作り方としてもいい加減すぎる、ナメていると思った。この歌が連作にあるという情報や、「ネットプリントで短歌を書いてるくせに」という作意を知っても、今のところその評価は変わらない。良くない歌にしかつけられない、何かの間違いで良い歌についていたとしてもそれを良くないものとして読ませる詞書に何の価値があるのだろうかと思う。
 一方で、歌壇における権力を一旦置いておいても、学生短歌界隈の現役学生とOBという点を考えると*8、青松さんの作品に対する私の発言が抑圧的な力を持つ可能性はある。批判的な意見を述べるのであれば、感情に任せた雑なかたちですべきではなかったと反省している。


 青松さんの作品はあまり読んだことがないし、今のところ強い印象は持っていない。批評家、「ブログに還れ」を実践している一人としての青松さんに対しては、「短歌(界)にとって決定的な損失」だとまでは思わないにしても、言及する=報酬を与えたくなるレベルのものを書く人だと思っている。

vetechu.hatenablog.com


 奇しくも私が「やめないでほしい」と願う歌人の一人である佐久間慧を中心とした評論。特に最近の佐クマ*9についての評は、簡潔ながらもとても鋭いと思う。
 論の本筋とは少しずれるけれど、私に一番刺さったのは以下の部分。

で、佐久間慧は確実に永井祐の一歩先を行けてるな、と感じて、そこが「なんたる星」のはだしさんと並んで二人を僕がすごく推している要因になってる。自分としても、作るとき、読むときにつねに永井祐の影をいろんなところに発見してしまうからこそ、永井祐以降、までいけてると感動しちゃうというか。

 
 「永井祐の影をいろんなところに発見してしまう」人は割といるのではないかと思う。しかしそのことが評論として、しかも「永井祐の一歩先を行けてる」歌について論じるもののなかで語られたのは、パンドラの箱を開けられた感がすごかった。
 いまブログを読み返したら、最新記事に「8月中に短歌関係の記事も上げようと思ってる」と書いてあったので期待しています。
 作品についても言及しようと思って「第三滑走路」の8号を刷ってきたけれど、それはまた後日。

*1:この記事はnoteだけれど、要はTwitterよりも主張を展開するのに向いていて、かつ検索にヒットする媒体ならなんでもよい

*2:実際どれほどできているかは課題だが

*3:率直に言えばこの文章についてもそうなれば、という思いはある。こんなもん押し付けられても困るわ、と言われそうだが

*4:人間社会において権力関係が存在しない状況が果たしてあるだろうか?

*5:という語があまり好きではないので最近は「短歌業界」という表現を多く使っている

*6:マンスプレイニング - Wikipedia マンスプレイニング - Wikipedia 、これ自体造語なのだから筋の悪い持ち出し方だが

*7:いま検索したので、消えたり非公開になったりしているツイートもあるかもしれない。私の検索術は信頼してほしい

*8:青松さんと私は同時期に在籍していたわけではないし、個人的な接点はないが

*9:名義が変わっている

めるかり、と喚んだでしょ? だから来てあげた/2019年8月以前の川柳

この薬が効けば鹿鳴館になる


負けたって思ったさきの峠道


ジョニデとはジョニーデップのことだろう


生ハムメロン販売員と過ごした夏


かわいくて才能のある密造酒


めるかり、と喚んだでしょ? だから来てあげた


負け方が悪いね芋煮会しよう


急行に乗った時点であきらめた


衛生面に定評のある牛丼屋


天皇もジョニーデップも食べた味


アカウントいくつ持ってるんだそこに座れ


人生を最悪にする焼き豆腐


長いトンネルを抜けると皇居だった


レイトショーまでに終わらせてあげるよ


逃げ水の逃げる気持ちもわかるけど



 作品をつくることよりもつくった作品を評価することのほうがはるかに難しい、というのは過去に短歌で経験したことで、そのときは最低限自分なりの評価基準が定まるまでに二年近くかかったから、川柳を真面目にやってみようと思い立って一週間ではそんなものはあるはずもない。評価基準が定まる前に発表した短歌のほとんどはいまの私にとっては見るに堪えないものだから、この川柳たちもおそらくはそうなるだろう。しかし短歌とははっきり別物としてやる以上、発表/創作のスタイルも短歌とは別にしたいので、当面はこうやって作った句を月ごとに公開していく方針でやってみたい。

2019年8月25日の日記

 アルバイト先を出てJRの最寄り駅まで歩く。駅の近くのラーメン屋で朝食。往々にして特別美味しいわけでもないくせに横浜に比べて高いので東京で家系を食べることはほぼないけれど、ここの店は朝ならサービス料金の500円で、味も悪くないから気に入っている。
 お金を使わず時間をつぶす方法はいろいろあるけれど、屋外で過ごすものはこの時期なるべく避けたくて、かつそれなりに長い時間をつぶしたい、となると最有力手段のひとつは大回り乗車だと思う。ついでに乗りつぶしができればなおいい。品川で横須賀線総武快速線に乗り換えると、ここから錦糸町まで*1は(少なくとも物心がついてからは)未乗区間だ。こんなに近くに乗ったことのない区間があったことも不思議。新橋駅の手前で列車が地下に入っていくと、いつもと違う展開にささやかな高揚感を覚える。緩行線に乗り継ぎ、西船橋武蔵野線に乗り換え。南浦和までが2つ目の未乗区間。緑を基調に家々が散りばめられた郊外にありがちな車窓は、とても楽しく感じられることもあれば、ひどくつまらないときもある。南浦和京浜東北線に乗り換えて南下。


 鶯谷で下車し、「ひだまりの泉 萩の湯」へ。この銭湯の噂は前々から聞いていたけれど、先日秋葉原での駒形友梨さんのリリースイベントの後に訪れた*2系列? の寿湯(上野)が良かったので、いよいよ行ってみる気になった。ビルの1階から4階までが銭湯、という説明から無限に広大な空間をイメージしていたが、そこまでではなく、湯船の種類はむしろ寿湯のほうが多いくらい。よく考えたら何フロアあろうと男湯/女湯はそれぞれ1フロアが限度だろうし、別にビルが巨大だなどとは一言も言っていないのだから当たり前なのだけれど。それでも十分に広々とした空間で、種類が多くない分一つ一つの浴槽が大きく作られている。サウナと水風呂がすぐ隣にあるのも入りやすく、噂に違わぬ良い銭湯だと思った。
 銭湯に入っている間に私に起きた変化が2つあり、1つはサウナで流れていたテレビで「水卜麻美」さんというアナウンサーの名前の読みが「みうらあさみ」だという知識を得たこと。ずっと「みとまみ」だと思っていた……。言われてみれば確かに「うら」と読めるし、カタカナだと思うよりそちらのほうがよほど自然だが。もう1つは川柳を真面目にやってみる気になったことだが、それを思い立ったのは「下町のしっとりとしたカレーパン」と書かれたポスターを見ているとき。5・7・5だからといってそれを川柳だと思っているわけではないし、自分の脳の動きがよく分からない。
 サウナと水風呂を行き来したり、ぬるめの炭酸風呂にだらだらと浸かっていたり、なんだかんだで3時間近く過ごしてしまった。自宅の風呂で異常な長風呂をする習性は抜けたけれど、外の温浴施設に来るとやっぱり長居してしまう。


 ようやく萩の湯を出て、徒歩で北上。地元の祭りの行列と行き当たるなどしながら、本日の歌会の会場、屋上にたどり着く。今年初めての歌会は2週間と少し前だったのに、気づけばもう4回目だ。しかしこれまでの3回はいずれも身内*3とばかりだったのに対して、今日は司会の山階基さん以外は初対面だった。多少はよそいきでやらなきゃな、という歌会は2年ぶりくらい。
 歌会は楽しかった。私の歌には1票も入らなかったけれど。0票だと昔はけっこう気にしていた記憶があるけれど、いつからそうでなくなったのだろう。山階基『風にあたる』も著者から買えたし。空間の雰囲気も好ましくて、また訪れたい。
 

 電車のなかで山階さんと歌集や連作の話をしていると、こういう話をするのも久々だよね、昔はいつもしていたのに、と言われる。2人とも学生でなくなってからもなんだかんだ会う機会はあるけれど、考えてみれば短歌そのものの話はした記憶は確かにない。もっと短歌そのものの話をしていきたい。
 山階さんは私にとっては(タメ口で話しまくっているとはいえ)やっぱり先輩なのだけれど、歌歴は2年、実年齢で言えば1つしか変わらないわけで、ひょっとすると自分が歌集というものを出すこともあるのだろうか、などと考えないこともない。まあ当面はそれどころではないし、渋谷のゆうゆう窓口から出した奨学金の返還猶予届も、もろもろの理由のうちの一つを明らかにしているけれど。家に向かう電車で赤羽尭『復讐、そして栄光』を読了。

*1:東京―品川間は系統上は東海道線と同じだが

*2:自宅と方向が真逆である

*3:早稲田短歌会にお邪魔したときはさすがにもう知らない人も多かったが、まあ元会員でもあるし部外者という気はしない

ロシア・プレミアリーグ2015-16シーズン第20節 ゼニト・サンクトペテルブルク vs ルビン・カザン

 夢に出てきた2人の非実在オタクが「黒木ほの香と前川涼子の“まだまだこれからなんです!”*1の素晴らしさを語り合っていたと思ったら、突如3年以上前にロシアで観たサッカーの観戦記を書けと脅してきて本当に怖かったので書く。日本語で書かれるスタディオン・ペトロフスキーの観戦記はたぶんこれが最後だろうし、声優ラジオの話題(なのかすら怪しい)から始まるものは空前絶後だと思う。

試合まで


 ロシアに一か月ほど短期留学することになって、初の日本国外でのサッカー観戦をすることに決めた。留学先がサンクトペテルブルクであることを考えれば、観る試合は同地で唯一のプレミア所属クラブ、ゼニトのホームゲームになるだろう*2。代理店などを通せば日本からチケットを買う手段もあることにはあるようだったが、手数料がかかるのも馬鹿らしいので行けばなんとかなるだろ精神で旅立つ。現地に着いてから留学中にUCL(ラウンド16、vsベンフィカ)もあることに気付いたが、既にチケットは完売していた。さすがはCLといったところか。
 改めてウィンターブレイク明けのホーム初戦、3月13日のルビン・カザン戦に狙いを定める。ルビン・カザンは2000年代後半にはプレミア連覇の経験もあり、UCLでも悪名高い? 6バックでバルセロナを苦しめたことで名を馳せたそうだが、この頃は既に国内でも中堅程度の立ち位置になっていて、まあ勝ち試合を観られるんじゃないかという下衆な期待もあった。


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 ゼニトのオフィシャルショップ「ゼニト・アリーナ*3」はサンクトペテルブルクのメインストリート、私が勝手にペテルの四条通と呼んでいたネフスキー通りに面している。カザン聖堂や、私が今まで見た建築のうち最も美しいと思った血の上の救世主教会にもほど近い店は、新しくてきれいだった。グッズのラインナップはJリーグと大きくは変わらない。違いはJリーグでは定番のタオルマフラーがない一方、ニットマフラーやジャケットなど防寒具の類が充実していたこと。マフラーには過去のUCLなどのビッグマッチに際して作られたと思われる、対戦する両クラブの要素が半々に入ったものも多かったが、大幅に値下げされているわけでもないそれをいまさら買う人が果たしているのかは不明。


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 店内にはクラブの栄光の歴史を讃えるゾーンもあり、なかでも一番誇らしいものは2007-08シーズンのUEFAカップ優勝のようだった。


 ゼニト・アリーナは時間がある日は毎日のように通っていたエルミタージュ美術館(国際学生証を見せると無料で入れる)から宿までの道のりにあったので何度となく立ち寄っていたが、ネイティブの幼稚園児レベルのロシア語力で電子機器を操作してチケットを発券するのに怖気づき、なかなか踏み切れなかった。機械はこちらの意図を推測してはくれないし、ボディランゲージも通じないから。かといって目の前に専用の機械があるものを人間から買うのもどうにも気が引ける。試合が迫ってきたのでようやく腹を括って買おうとしたが、紙幣が呑み込まれたまま戻ってこないというまさかの事態に。店員を呼ぶとどうも偽札が交じっていたらしく、街中の適当な両替所を使ったのが悪かったのだろうか。ともあれ呑まれた額は大したものではなかったし、試合のない日にスタジアム脇のクラブ事務所に行けば返してくれるとのことだった。

当日


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 スタディオン・ペトロフスキーはメトロのスポルチーヴナヤ駅(そのまま「スポーツの」という意味)を出て少し歩いたところにあり、近づくとそれを環状に取り囲む警備員に行く手を阻まれる。セキュリティチェックを終え、環を抜けて進んでいくと一回り小さい環があり、またセキュリティチェック。チケットを切るときも、スタンドへのゲートでもセキュリティチェック。いちいちホールドアップさせられ全身を触られ、荷物の中身を全てぶちまけられる横を、おざなりなチェックで解放されるロシア人たち(男性ばかりだ)が追い越していく。人種差別だろ、と思うが、中国系と思しき男女が私よりは明らかに軽いチェックで通されていたのを見ると、表面が傷だらけでところどころ羽毛がはみ出しているダウンジャケットに、穴が開いている(のは一目では分からないと思うが、ボロボロなのは明らか)ボトムスという格好も悪かったのかもしれない。まあ単に若い一人者という属性が警戒されていたのかもしれないが。


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 コンコースは建築物の中にはなく、外周の屋外からゲートを通ってそのまま入るスタイル(三ッ沢みたいな感じ)だったと記憶している。プレハブのようなトイレにも風が吹き込んでくる。収容人員は20985人。一層式のスタンドは、観やすいわけではないが日産ほどピッチから遠いわけでもない。なんというか、実に「旧共産圏の陸上競技場」という感じ。


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 ゼニトのウルトラス。向かって左下の見切れている横断幕は「НАШЕ ИМЯ ЗЕНИТ」で、スローガンの類として扱われているよう。「俺たちの名はゼニト」くらいの訳でよいだろうか。反対側のゴール裏もほとんどはゼニトサポーターで、大仰なフェンスに囲まれたゾーンにいるはずのルビン・カザンサポーターは探すのに難儀するほど少なかった。日曜のナイトマッチで、サンクトペテルブルクからカザンは直線距離で1200km以上(日本だと仙台―鹿児島よりも少し遠いくらい)離れているのだから無理もない。
 バック/メインスタンドはそれなりには埋まっていたが、しかし席を探すのに苦労するほどではない。リーグ公式の試合記録だと観客は16797人となっているけれど、収容人員の約80%が埋まっていたとは写真を観ても当時の体感からしてもちょっと信じられない……。いずれにせよ、ロシア有数のビッグクラブのホームゲームとしてはやや寂しい印象を受けた。


 日本ではありえないほど早めに座席に着いたが、それが仇になったかキックオフ前に身体の異常に気付く。震えが止まらない理由は容易に推測出来て、単純に寒すぎるのだ。上の写真がいかにも適当に撮られているのも多分そのせい。
 サンクトペテルブルクは緯度こそ高いものの、決して極寒というわけでもない。冬季の平均気温は旭川よりも高いくらいで、昼間はあちこちを散歩して回っていた。しかし夜に風を遮るものもない場所で動かずにいる、というシチュエーションでの体感温度は段違いに低く、どんどんと体力を奪われていたらしい。
 このままでは凍死しかねない、というのは大袈裟にしてもそれくらいの苦痛のなかで、旧国立競技場では自動販売機のカップラーメンが暖房と言われていた、というジョークを思い出し、なにか温かい食べ物で暖を取ることにする。コンコースには特別凝ってはいない、まあいかにもスタジアムにで売っていそうな食事がそれなりに売られていた。一番安くて暖房になりそうなオニオンスープを買ってスタンドに戻ろうとすると、またホールドアップを要求される。オニオンスープを自分の頭にぶちまけるのは勘弁したいのでホールドアップする間これを持っていてくれと頼むと、苦笑いしながらそのまま通してくれる。ありがたいのだがセキュリティ的にはそれでいいのか。


 ゼニトのスタメンはロディギン、スモルニコフ、ロンバーツ、ネト、ジルコフ、ダニー、シャトフ、マウリシオ、ヴィツェル、ジューバ、フッキ。ロディギン、スモルニコフ、シャトフ、ジューバはロシア、ダニーはポルトガルヴィツェルはベルギーの現役代表だった。ベンチにもロシア代表のユスポフ、ココリンに元イタリア代表のクリシート、スペイン代表歴のあるハビ・ガルシアという実に豪華な面子。とはいえこのメンバーも上記の公式記録を見て書いているし、当時の私はその豪華さを十分に分かっていたとは言えないが。とりあえずフッキが出ていることに満足し、ロシア代表組で唯一認識していたココリンがベンチなことが残念というくらい。
 肝心の試合の内容については正直あまり覚えていない。かなりゼニトが押し込み、攻撃陣の良いところが目立つ展開のなか、ダニーとジューバの2人を気に入ったことをぼんやりと記憶している。この時点でゼニトで8シーズン目だったキャプテンのダニーはいかにもポルトガル人の10番、というテクニシャンで、華のあるプレーをしていた。クラブショップにもフッキと同等かそれ以上にグッズが売られていてサポーターからの人気の高さが窺えた。大型FWのジューバはおそらく私がいままで現地で観たサッカー選手のなかで一番フィジカルが強い。この手のタイプは必ずしも好みというわけではないけれど、現地観戦だとその肉体の発散するエネルギーには抗いがたい魅力がある。
 試合はダニーが2ゴール、ジューバとフッキがそれぞれ1ゴールを挙げ4-2で勝利。



Highlights | Zenit Saint Petersburg 4-2 Rubin Kazan


 Youtubeにゴールシーンのハイライトがあった。というかルビンのゴールが2点ともけっこう凄い。
 試合後のスポルチーヴナヤ駅は入場規制がされていて、隣の駅まで歩いた。

その後


 後日、スタジアム横にある事務所に発券機に呑まれた金を返してもらいに行く。ごく普通のオフィスの入り口で店員が裏書してくれたレシートを見せると、すぐに剥き出しの紙幣を持った職員が出てくる。この間の試合を観た、ゼニトが勝って嬉しい、というようなことを拙いロシア語で伝え、少々会話をした。
 帰国直前、エルミタージュのすべて*4をなんとか観終えた帰り道で最後のゼニト・アリーナ訪問。自分用に例の「НАШЕ ИМЯ ЗЕНИТ」が入ったニットマフラーを買う。できればゼニト要素オンリーの(=上述のビッグマッチ記念系以外)、キリル文字が入っているものが欲しい、という条件では選択肢は少なかった。ここはロシアなのにラテン文字・英語のものばかりなのは意味が分からない、と当時は思ったが、今考えると日本ならばラテン文字でないマフラーなんて一つもないクラブも珍しくなさそうだし、そんなに理解不能な話でもない。
 土産は友人のために使い捨てライター、フッキの肉体が好きだと言っていた(しかしそれ以外にサッカーの話をしているのは聞いたことがない)先輩に上半身裸のフッキのポストカードを買った。そういえば使い捨てライターもJリーグのグッズではお目にかからない。


 あれから3年半が経った。件のニットマフラーは愛用しているし、海外の*5好きなクラブを訊ねられたらゼニトと答えてきた。昨年のワールドカップでロシアに肩入れしたのも、ジューバを筆頭にゼニトに縁のある選手の存在が大きい。けれどもあれ以来ゼニトの試合をちゃんと観たことは一度もないし、日常的に情報をフォローしているともとても言えない。
 ゼニトのほうも2017-18シーズンからはついに完成した新スタジアム、ガスプロム・アリーナに移って、すっかり様変わりしたようだ。



Highlights Zenit vs CSKA (3-1)


 収容人員62315人の大半が埋まっているスタジアムの雰囲気は、相手がCSKAだということを差し引いても、あの夜のスタディオン・ペトロフスキーとはかけ離れている。観客の40%が女性になったという記事を観たときは俄かには信じがたかったが、このスタジアムならばまったく有り得なくはないかもしれない。
 そもそもガスプロム・アリーナは本来なら私が行った時点でとっくに完成していたはずで、ロシアらしい計画のいい加減さ*6を当時は恨んでいた。しかし今こうして思い返してみると、あの典型的な「旧共産圏の陸上競技場」で観戦できたことをは、やはり得難い経験だった気がする。最新鋭のサッカー専用スタジアムは今後も日本を含めた世界中にできるだろうけれど、ああいった競技場は減っていくばかりだろうから。


 ダニーはあの試合の翌月に負った前十字靭帯断裂でEURO2016出場を逃し、その後のキャリアも下り坂に。現在は無所属で半引退状態らしい。ジューバはゼニトと代表のエースとして活躍しているが、一度監督のマンチーニに干されてレンタルされたとき、ゼニト戦に自ら違約金を払って出場して同点ゴールを決めたというエピソードがいかにも彼のイメージに合っていて笑ってしまう。一方直前の怪我で地元でのワールドカップ出場を逃したココリン(代わりに入ったのがジューバ)は暴行事件で投獄されているという無常。フッキはご存知の通り上海上港に移籍して、ACLJリーグ勢に立ちはだかっている。

*1:私は一度も聴いたことがないし、出演者についても『アイドルマスター シャイニーカラーズ』で双子の役をやっているらしいということくらいしか知らない。ちなみに向かって左側のオタクは「2人が恋人同士という設定が最高」などと言っていたが、そんな設定はないと思う

*2:サンクトペテルブルクのゼニト以外のクラブは移転や解散を繰り返していて、2部以上の全国リーグにいるのはゼニトのみ、ということが多い。モスクワ勢はプレミア常連だけでも4クラブもあるのとは対照的だ

*3:後述のガスプロム・アリーナが開業して以来、ロシア語で「ゼニト・アリーナ」と検索してもそちらばかりがヒットしてしまう。改名したほうが良いのではないだろうか

*4:閉鎖中やツアーでしか入れない箇所を除く

*5:多くのサッカーファンが「海外」と言ったとき暗黙のうちに指しているヨーロッパにロシアが入るかは永遠の問題だが、少なくともサッカーにおいてはUEFA所属なのだから文句を言われることはないだろう

*6:どこぞの国の国立競技場に関するグダグダっぷりを考えれば、他所のことを言える筋合いはないが

綾辻行人『十角館の殺人 <新装改訂版> 』

「地道な努力を惜しまない勤勉な刑事たち、強固な組織力、最新の科学捜査技術……警察は今や、決して無能じゃない。有能すぎて困るくらいだ。現実問題として、灰色の脳細胞を唯一の武器とした昔ながらの名探偵たちの活躍する余地が、いったいどこにある。現代の都会にかのホームズ氏が出現したとしても、おおかた滑稽さのほうが目立つだろうね」
「それは云いすぎですよ。現代には現代なりのホームズが現われうるでしょう」
「そう。もちろんそうさ。恐らく彼は、最先端の法医学や鑑識科学の知識を山ほど引っさげて登場するんだ。そして可哀想なワトスン君に説明する。読者の知識がとうてい及びもつかないような、難解な専門用語や数式を羅列してね。あまりにも明白だよワトスン君、こんなことも知らないのかいワトスン君……」

 有名ミステリを読もうシリーズ第二弾。個人的には、「僕にとって推理小説ミステリとは、あくまでも知的な遊びの一つなんだ」に始まるかの有名な台詞で挙げられている「“社会派”式のリアリズム」はまだ許容範囲でも、「最先端の法医学や鑑識科学の知識」で謎を解決するのはちょっと勘弁してほしいと感じる。


本格ミステリの最も現代的﹅﹅﹅なテーマは“嵐の山荘”である」という台詞には、傍点が振られていることからしてある種の諧謔が含まれているだろうけれど(そもそもメタに考えれば、古典ミステリ作家の名で呼び合うミス研会員たちという存在自体が既にジョークに等しい)、「嵐の山荘」、ひいてはその変奏であり、まさにこの作品も当てはまる「孤島もの」は、元々あまりに「現代的」でなかったがゆえに、実際に発表から30年以上が過ぎてもなお現代的だし、おそらく人間の身体機能そのものが変質しない限りそうであり続けるだろう。*1
 ミステリマニアでないと楽しめない、という評を見て身構えていたが、特にマニアというわけでもない*2身でも面白く読めた。オマージュ元であると思われる某古典もうろ覚えだったし。戸川安宣の解説ではその古典のある点でのカタルシスのなさへの不満と、それこそが本書の執筆動機ではないかという推測が書かれていて、割と納得できるといえばできるけれど、正直そこに関しては本書でも私はカタルシスが十分ではないと思ったので、本当にそれが動機なのだとしたら作者はこれで満足できるのか? やっぱり違うのでは……?とも思う。
 (改訂が入っているからかもしれないが)文章も読みやすい。強烈な設定の割には登場人物のキャラクターはそこまで立っているわけでもないけれど、館や島といった舞台こそが主人公であると考えれば、これくらいが丁度良いのかもしれない。

*1:もっとも、現代を舞台にそれらを書くならば、外部との連絡手段としての携帯電話・インターネットが使えない理由付けは必要だろうけれど

*2:作中でニックネームとして名が使われているミステリ作家のうち、一作でも読んだことがあるのは3人だけ

2019シーズンJ2リーグ第27節 横浜FC vs 水戸

 タダ券を手に入れたので、敵情視察と言い訳をして。いや、南アフリカワールドカップの後にマリノスサポーターになった私には、個人的な敵対意識はほぼないというのが率直なところだけれど。
 横浜FCの主催試合を観るのは2度目。前回はプレーオフ初年度の最終節で、それは2012年のことだから、もう7年近く前ということになる。ちょっと信じがたい。ついでに2012年のJ2について調べたら、町田と松本が昇格してきて22クラブになった初年度だったり、その町田が今のところ唯一のJFL降格の憂き目にあっていたりと隔世の感がある。


 開始直前に現地着。さすがに一銭も落とさないのも悪いかと思いかき氷を買おうとするも、予想以上に待つことになりキックオフから10分近く経ってようやくスタンドへ。バックスタンドの一番アウェイ寄りのゾーンに着席。区画が狭めとはいえアウェイゴール裏はほぼ埋まっていてなかなかの雰囲気。
 横浜FCはいろいろな意味で見覚えのある選手が多い。田代と武田英二郎が30代というのもびっくり。その田代と松井大輔のダブルボランチは違和感がすごい。目の前で積極的に仕掛ける37番をこれが斉藤光毅かあ、と思っていたが、途中で違う選手と気付く。だっていかにも2種登録の選手が着けそうな背番号だし……。その選手、特別指定らしい松尾佑介は背格好も髪型も本物の斉藤光毅(23番)とそっくりで、正体が分かってからもしばしば混乱した。
 前半は横浜FCがほぼ一方的に押していたけれど点は入らず。生で観るイバは相当な迫力だったが、今日はやや身体が重そうな感じも。


 考えてみれば三ッ沢でサッカーを観るのもかなり久しぶりだ。日産の2階も俯瞰でピッチ全体が観られて悪くない、なんて言っているけれど、三ッ沢に来るとやっぱりそれはただの強がりだと思わざるを得ない。今日は客席もかなり埋まっていて非常に良い雰囲気。
 とはいえ「サッカーが観やすい」以外にはあまり良いところがないというのも変わっておらず*1、サッカーにそれほど関心のあるわけではない友人を誘うならやっぱり日産が無難かな、という感じ。日産のことを常々「サッカーが致命的に観にくいこと以外は最高のスタジアム」と言っているが、良いとこ取りで合体してくれんものかな。


 後半はややオープンな展開に。黒川と木村(北九州の頃からなんとなく好き。ジュニアユースから川崎だったことを初めて知った)がボールを触る機会が増えると水戸にもチャンスが増えてくる。水戸が敵陣でセットプレーを取るとゴール前に左SBの志知が入る。それなりに高さはありそうだけれど*2、とはいえ大型というわけでもないSBがそこに入るのは珍しい気がする。空中戦強いのかな。
 横浜FCも磐田時代からなんとなく好きな松浦を投入。相変わらずのドリブルで仕掛けていたが、効果的だったかは微妙。松浦・松尾・斉藤の2列目は素人目にもちょっと無理のある気がした。そしてその3人よりも激しく仕掛けてくる北爪はどこがSBなのかさっぱりわからない。そうこうしているうちに横浜FCのミスから小川航基が決定機を迎えるも枠外。この試合の小川の見せ場はこの場面くらい。水戸がチームとして上手くいっている時間が限られていたとはいえ、ボールにはほとんど絡めていなかった。
 小川については昔から、あくまで「アマチュア(育成年代)レベルの好選手」であってプロのトップレベルではその下馬評ほどには通用しないのでは、という気がしてならず*3、しかし神奈川県出身者だし応援していないわけではないので頑張って欲しい。でもとりあえず「万能型」ではないと思う。ゴール以外はおまけの古典的ストライカーと考えたほうが本人のためなんじゃないか。


 試合終盤、場内のざわつきの理由を探すと背番号46がライン際にいた。投入されて上がるこの日一番の歓声のなか、私は選手交代に対する儀礼として手を叩くだけ。
 2010年に私が応援するクラブとして横浜FCではなくマリノスを選んだ理由の一つには間違いなく中村俊輔の存在があって、しかし今の私の彼に対する関心は、たぶんスタンドを埋める人々のなかでも下から数えたほうが早い。「好きの反対は無関心」という言葉は好きではない(無関心がどうこうというより、そこにある「嫌よ嫌よも好きのうち」的発想がそれこそ嫌なので)けれど、個人的な意識はともかく間違いなくライバル、宿敵として定義されているクラブへの移籍報道に何も感じなかったときは、その言葉にも一理があることを認めざるを得なかった。自分でも本当にびっくりするほど彼に対する関心がなくなってしまった理由は、列挙しようと思えばいろいろと挙げられるし、しかしそのどれも違う気もする。
 後半ATの激しい攻め合いがこのゲームで一番面白かったかもしれない。俊輔にもFKで見せ場はあって、まあ良かったのではないか。結果はスコアレスドローだったが楽しめるゲームだった。


 退場時、「横浜ダービー絶対勝利」という横断幕が張られ、アジテーションがなされているゲート付近をそそくさと通り過ぎる。歩道橋に至っても人で溢れていて、「帰りに困るクラブになっちゃうなんてな」という嬉しそうな会話が聞こえたのが印象的だった。
 新横浜通りから少し入ったところで、公式グッズではないと思われるシャツを着た人が、迎車表示を出したタクシーの窓を殴りながら怒鳴り散らしていた。まあどこにでもそういう人はいるものだけれど……。

*1:私はサッカー場ではただサッカーを観ていれば満足なので、「そういう視点」を意図的にインストールするならば、というところだが

*2:177cmらしい

*3:ちなみに競技は違えど同様のことをもっとも強く思っているのがロッテの小島和哉で、しかし先日先発で好投していたので私の見る目が危うい

自信

 明かりも人も見えない夜の闇を歩いていけるのは、死者や幽霊や妖怪がいないと思っているからじゃない。その証拠に、今だってまったく怖くないわけじゃないし。それでも耐えられるのは、かれらがいたとしても私に危害を加えることはできない、お互いが相手を知覚できるなら、むしろかれらのほうが私に従うはずだ、そうであるべきだ、という自信があるからだ。この自信、私にあるべき力が実際に通用するものなのか確かめる機会にはいまだ恵まれていないけれど、考えてみればいまのアルバイト、死者たちと同じ建物で夜を明かすことでお金をもらう仕事を行う上ではすでに大いなる力を発揮しているともいえて、この自信をもたらす思想の原点はトールキン十二国記かそれとも他のファンタジーか、あるいはあまり読んだ記憶はないけれどホラーの類だろうか、ともかく本たちと作者たちに感謝する。いやどの作者もこんな怪しい選民思想の土台にされるなんで想像もしていなかっただろうけれど。


 けれど私にも暗闇で姿の見えないものから必死に逃げた経験がないわけではなくて、しかもその暗闇は今よりずっと浅い、まだ薄明かりが残る釧路湿原だった。14時半ごろ最寄駅に降り立った私にとっての帰りの列車(電車ではない)は4時間待ちで、道東の秋は16時過ぎともなればもう日が暮れてしまう。駅の近くの展望台から景色をひととおり楽しんだあとで、どうせなら満天の星空でも観てやるか、一緒に降りてここまできた団体客はこのあたりにとどまるだろうから反対側で、と威勢良く出発して、たぶん2、3km歩いたさきの沼のまわりをぶらぶらしていたところまでは良かったが、あたりが暗くなってくると道路わき、沼と反対側の木々の奥からの物音がやけに気になってくる。もしかしてヒグマじゃないか。熊避けになるようなものなんて持っていないし、ヒグマが私に従ってくれる気もあんまりしない。早足で来た道を引き返す。沼をはなれると両側が林になる。左右両耳に届くすべての物音がヒグマに聴こえる。もう限界だ。走り出す。追いかけてくる無数の足音のほとんどは自分のそれが木々に反響したものだと分かるけれど、そのなかの一つもヒグマのものでないとどうして言える? 息が切れて走るのをやめると足音も消えた。今回は。次回もそうなるとどうして言える?
 アスファルトの道と鉄の道が接したところで、本来人間が走るべきではないほうに乗り入れる。バラストの舗装は何ヶ月も前から穴の空いている靴で走るには痛すぎるけれど、姿の見えない怪物が潜む魔界が左右にあるよりはマシだし、列車はヒグマよりもはるかに勝ち目はないけれど、なにせあと2時間は私の眼前には現れない。


 そんなことを思い出しながら戻ってきた駅は釧路湿原駅ではなく横川駅で、列車(電車だ)を待つのもたった1時間でいい。たぶん15分ぶりくらいに見た明かりは直近と同じ駅のもので、改札の脇に貼ってある、さっきは見えなかったポスターに、「野生動物の出没に注意してください」の文字を見つける。両側を木々にはさまれたさっきの道で、私の足音以外に聞こえた音はなんだったかな。死者や幽霊や妖怪だと思いこもうとしていたんだけど。ヒグマということはないと思うけれど、本州の動物たちは私に従ってくれるだろうか。